2001年度出張報告

小児錦についての基礎的知識と今後の展望




中国最大の薬材集積地の一つ、甘肅省三甲集の中心街



『小児錦』文字資料コーパス構築に向けた資料収集とデジタル化」プロジェクトでは、2002年度以降の本格的資料収集・調査ための準備作業の一環として、黒岩高・安藤潤一郎(共に東京大学大学院博士課程)の2名を北京及び甘肅・青海両省に派遣し、「小児錦準備調査(2002年2月28日〜3月16日)」〔日程の詳細については〔別表1〕を参照〕を行った。

本準備調査の主たる目的は、(1)現行の「小児錦」文献資料の調査・収集、及び(2)「小児錦」文献資料の研究状況に関する現地研究者からの情報収集の2点にあった。しかし、調査実施の際には、この文献資料のより詳細に関わる情報も得られている。また、調査の準備段階で得られた「小児錦」文献資料についての基礎的情報の開示も、報告の内容を了解する上で不可欠であろう。それゆえ、以降ではこれらの所見を含めて報告を行なうことにする。


目    次
shikaku
1.「小児錦」についての基礎的情報 sikaku 別表1.調査日程
2.研究状況と課題 別表2.収集「小児錦」文献一覧
3.生きた書写体系としての小児錦 別表3.現行「小児錦」文献の使用状況についての聞き取り調査表
4.史料・資料としての小児錦
5.「小児錦」研究の展望
6.参考文献





1.「小児錦」についての基礎的情報


1‐1 「小児錦」とは

まず、「小児錦」とは、アラビア語・ペルシャ語の字母を用いて中国内地のムスリムの日常語を表記したもの、或いはこの表記を用いて著されたものを指す。現地研究者の間では「漢語併音文字」と称される事が多い。ただし、ムスリム独特の漢語である「経堂語」からも推測されるように「小児錦」による著作にはアラビア語・ペルシャ語の語彙が少なからず含有される。また、[陳元龍1999]に示されるように東郷族など独自の言語(モンゴル系東郷語)を持つ場合、民族言語に対して小児錦による表記が用いられる例も確認されている。


 1‐2 名称とその由来

 この表記法には、
(@)「小児錦」のほかに(A)「小経」(B)「小児経」(C)「消経」などの名称があり、その由来は次の通りである。
 (@)「小児錦」:「小児経」の訛化であり、甘肅・寧夏・青海一体で用いられることが多い呼称とされる。 しかし、今回の調査を行った蘭州・臨夏・西寧一帯ではこの呼称を耳にする機会は皆無であり、検討の余地が見られる。

 (A)「小経」:この表記を用いてアラビア語・ペルシャ語などの原典に注釈をつける過程で、原典を「大経」とするのに対し「小経」と呼ばれるようになった。

 (B)「小児経」:ムスリムが家庭内で子弟にアラビア語を教授する際に用いるため、この呼称が生じたとする報告があるが、「小経」が「児」化したものであるとする説もあり、[劉迎勝2001]に述べられるように、後者の解釈 が研究者の間では優勢である。

 (C)「消経」:甘肅・寧夏・青海一体では、アホンの講義をこの表記で筆写したものを復習し、経書の内容を理解 していく行為を「消一消」と呼び、「原典を漢語の注釈を通じて消化した」の意でこの呼称がある。[馮増烈1982 ]のように、この「消経」がこの表記法にたいする本来の呼称であると論じる研究もある。

1‐3 来源と使用状況の変遷

漢語をアラビア・ペルシャ語の字母を用いて表した例は、元・明代の碑刻に表れるものが最も早くであり、13・14世紀にこの表記が出現したとされる。しかし、この表記法の流布は、陝西省のムスリム知識人胡登洲(1522−1597)が「経堂教育」を確立し、この教育が内地のムスリムの間に浸透したのを契機とする説が有力である。また、当初はアラビア語・ペルシャ語経典・文法の講義・注釈に専ら用いられていたが、「経堂教育」の普及に伴い、通信や日記などのより一般的な目的にも使用されるようになった。ただし、これらの使用例は多く私的なものであるため、史料集『回民起義』(V)所収の「紀事」のように公表・出版を経ることはきわめて稀である。

中華民国期、とりわけ1920−30年代には、上海穆民出版社や新疆アホン馬良駿の手により経典の「小児錦」訳や「小児錦」によるパンフレットが出版され、各地で異本が発行されている。「解放」以降はアラビア語教育の普及に伴いこの表記の使用は急速に衰退し、現在では使用するものは少ないとされる。




2.研究状況と課題

2‐1 先行研究

「小児錦」研究の先駆は[馮増烈1982]であり、「小児錦」の基礎情報に加えて、表記法としての欠陥が指摘されている。東郷族独特の「小児錦」を紹介したものには[陳元龍1999]、[馬自祥2000]がある。また、研究史を要約するとともに臨夏市内で小児錦資料を収集し、紹介したものに[劉迎勝2001]がある。

北京での調査においては、中国伊斯蘭協会の高占福氏から、「小児錦」研究の動向について、「現在、中国国内においても小児錦研究は決して盛んではなく、主な研究者は劉迎勝(南京大学歴史系教授)、陳元龍(東郷族、臨夏回族自治州政府秘書長)、馬克(元甘粛省民族事務委員会勤務;現在は退官して蘭州市西関清真大寺に在職)である」とのコメントを得たのに加え、後者2名との面会の便宜を図られた。しかし、陳元龍については蘭州で省規模の政協商会議が開催されていたため、面会を自粛せざるを得ず、また、馬克勲はサウジアラビア訪問からの帰国途上にあったため面会を断念した。

巡礼からの帰国者祝福しようと空港に集う人々 蘭州巡礼から帰郷するアホン(中央):北京空港


2‐2 現時点での課題

いずれにせよ、小児錦の研究が初期段階に止まっていることは明らかであり、今後の方針としてはさまざまな可能性を考慮すべきであるが、これらの先行研究に今回の調査・収集で得られた成果、印象を加味した場合、当面は以のような点を掘り下げていくことが考えられる。

 (@) 1920〜30年代に小児錦文献が大量に発行された社会的背景の分析。
 (A) 先行研究のおいて「現在この表記法の必要は極めて少ない」とされるが、蘭州・臨夏・西寧各地の経書店ではいまだに大量の小児錦文献が販売されている。これらの文献の使用者、及び使用状況の詳細に関する調査。
 (B) 〔別表2〕のように同一文献に対して、複数の異本(地域的・表記的)が存在することに対する意味付けおよび、各異本の使用状況、及び流通範囲の調査。
 (C)「小児錦は陝西・甘肅方言を中心とするため併音法としての普遍性に欠く」と指摘されるが、この方言がどのレヴェルの地域ものであるかは曖昧である。きわめて詳細な方言差が確認される一方で、経堂教育の学派に応じた傾向が存在する可能性も強い。それゆえ、方言を反映した各版本の流通範囲の調査・検討が是非とも必要である。
 (D) 回族・東郷族以外の内地ムスリム、保安族・撒拉族間における各自の民族言語を反映した小児錦の有無についての調査。
 (E) 未調査のムスリムおよびドンガン集住地域(中国沿海部、雲南、新疆、カザフスタン、クルグズスタン等)における小児錦文献の流布状況と各文献の出版地、各文献に反映されている方言についての調査。

民国期の回民軍閥の一つ、馬歩青の邸宅、東公館の母屋
彼ら回民軍閥もイスラーム典籍出版事業の担い手となった



3.生きた書写体系としての小児錦


3‐1「小児錦」の使用状況

「小児錦」文献の使用状況は、主たる調査対象地とした甘肅・青海地方内でも、大きく相違する。調査の際に行った聞き取り〔別表3参照〕に基づいて各地の「小児錦」の使用状況をまとめると、次の通りである。
(@) 北京:ほとんど使われていないようである。むしろ、祈祷文のアラビア語・ペルシャ語文を漢字の「振り仮名」で唱える、という場合も多い。

北京の「小児錦」についての情報提供者、東四清真寺経書礼品部門のケ正通氏(左奥)

(A) 蘭州:「小児錦」というものについての知識はかなり共有されているが、実際に読める者は限られており読める者の読解力も高くないようである。実際に使用される場面も少ないと見られる。ただし、これはあくまで男性へのインタビューから得た推論であり、女性に関しては違った状況が存在する可能性がある。

(B) 臨夏:かなり身近な存在ではあるようだが、実際に広く使用されているけはいはあまりない。また、「小経」という概念を、経典を学ぶ手段としての「通常の漢語文」あるいは「初級アラビア語」と認識している例も見られた。
     

阿文学校の成績表。生徒の出身地と、学習する主要科目がわかる:臨夏市


(C) 大河家(積石関;保安族集住区):清真寺の女寺で女性を対象に正式な教授がなされており、インフォーマントの 女性は『信仰問答』の文章を流暢に読みこなした。彼女の父親もかなり達者に朗読して見せた。少なくとも宗教的実践の領域において、小児錦は相当に重要な表記メディアであると考えられる。なお、保安語の小児錦の存在は確認できず、保安族も筆記の際は漢語(通常の漢文)を用いるとのことであった。

大河家は“鍛冶屋の町でもある”。見習い鍛冶による「保安腰刀」の鍛刀風景。

(D) 東郷:状況は臨夏とほぼ同じである。東郷語の小児錦に関しては、[馬自祥2000]などの近年の諸研究や東郷族関係の概説書にかなり詳しく言及されているものの、現地ではその存在はあまり知られていないようである。

典型的な東郷族の集落

(E) 西寧:今回聞き取りを行なったかぎりでは、最も広範、かつ実質的に小児錦が使われている地域であった。正式な教育は行なわれていないものの、小児錦で書かれた経書の需要は少なくないと見られ、また、日常 書写体系としても、いまだに活用され続けているらしい。
 

      
中国で最も有名な清真寺の一つとされる西寧東関清真大寺の正門(左)と礼拝堂(右)


3‐2 現行の「小児錦」の特徴

まず、出版事業の中心は天津、臨夏および西寧にあると見られる〔別表2参照〕。また、一般的に言って「辺境」、すなわち西へ行けば行くほど、使用者や使用範囲は広い。さらに、西寧での聞き取りから、近年における小児錦の歴史的転機は1950年代後半であるらしいことが分かった〔別表3参照〕。1950年代までは。清真寺で教えられ、誰もが解し、日常の社会生活にも広く使われる文字体系であったが、それ以後は、女性・老人に主として用いられる、読解用だけの補助的な表記体系と化していったわけである。周知のとおり、この時期は中華人民共和国の少数民族政策の転換期と一致する。したがって、政治変動とパラレルな何らかの構造的変化を想定することも可能であろう。

一方、 地域差はかなりある。例えば、西寧版の『信仰問答』には青海小児錦の字母表が附されているが、それを用いて臨夏版の『信仰問答』を読もうとすると、読解困難な部分も多い。つまり、発音・字母・語彙の各面で食い違いが確認される。他方、〔別表3〕に挙げた「西寧−アルタイ間の手紙のやり取り」の例からも見て取れるように、同じ小児錦を共有するサークルが地域を越えて広がっている。




4.史料・資料としての小児錦

4‐1 小児錦文献の類型

 (@) 現行の「小児錦」には、経典の註釈や通俗的・啓蒙的教義文献、あるいは辞書類などの宗教文献が多く、今回の調査において収集した「小児錦」資料もそのほとんどがこの分野に関するものである〔別表2参照〕。

 (A) 日常的に使用されてきた表記体系でもあり、清代から民国期においては、さまざまな種類の文書が小児 錦を使って書かれたと考えられる。『回民起義』V所収の「紀事」のようにわずかではあるが、その例も示されている。今後、清真寺や私人宅、地方档案館などの所蔵文書を詳しく調べることができれば、小児錦による「地方文書」が大量に発見される可能性もある。



4‐2 史料・資料としての意義

まず、宗教社会学(人類学)的研究における意義として、小児錦による宗教文献は、回族その他いわゆる「中国ムスリム」のイスラームを、その「民衆的」層位において理解するための基本史料の一つになると考えられる。次に、言語学的研究における意義としては、漢語の表音文字表記という特異な事例の一つになるほか、「紀事」や『信仰告白』に見られるような、ハイブリッドな言語使用の研究事例としても、興味深いものであろう。さらに、歴史学・地域研究においては、宗教文献・「地方文書」ともに、歴史学・地域研究とっての史(資)料的意義はきわめて大きいと思われる。具体的には、以下のような諸点が挙げられよう。

(@) 従来、回民の「歴史」は、漢人マジョリティやその時々の体制、あるいは中国ナショナリズムを何らかの形 で内面化した回民エリート層の、すぐれて権力的な語りによって構築されてきた。我々が「歴史」を語る場合も、そうした語り に依拠せざるを得ない。そして、近年顕在化しつつある「自らの歴史」(=「別の歴史」)を語ろうという動きもまた、ナショナルな物語を「流用」する形の「対抗的語り」の形式を取っている。では、歴史的に一般の(すなわち、帝国あるいはネーションの権力エリートではない)回民はどのように語ってきたのか。小児錦による文献、特に「地方文書」は、かかる空白を埋める一つの手がかりになるのではないだろうか。

(A) ある種類の小児錦の形態あるいはテクストが、どのような範囲で通用・流通しているかを明らかにするこ とにより 、ムスリム諸集団を媒体とした一つの「地域」が浮かび上がって来るであろう。たとえば、[Lipman1984 ]が提唱した「ネットワークとパッチワークの結合」としての甘肅・青海地方に具体的なモデルを提供することも可能であろうし、視野を広げれば、東アジアと中央アジアを結ぶ重層的な地域像への手がかりともなろう。

(B)  東郷語「小児錦」に代表される「民族語」を反映した「小児錦」の成立過程の分析は、東郷族など非漢語系「回民」の歴史像、ならびに現代におけるエスニシティの構築と変容に接近するよすがとなりえよう。


4‐3 史料・資料としての難点

まず、史料批判の困難さが挙げられる。例えば、現存する小児錦文献には、書誌情報のまったく分からないものが多い。また、たとえ「地方文書」が発見されても、その作成者や作成事情(意図)を明らかにするのは難しい。

次に、読解が極めて困難であることがある。すなわち、方言が反映されているのばかりでなく、多種言語が混用されている上に、独特な特殊文字の読み方が用いられているため、難解なものが多い。また、[馮増烈1982]にも述べられるように、そもそも音節の切れ目が分かりにくいことに加えて、作成者のアラビア文作成能力がそれほど高くない場合が多く、誤読する可能性が高い。



5.「小児錦」研究の展望
上述の内容をふまえ、今後の「小児錦」研究の展望をまとめるとすれば、次のようになろう。

まず、2‐2で述べたような現状の課題を克服し、4‐2に見られるような「小児錦」文献資料の意義を活用するには学際的な研究が必須である。すなわち、「珍奇な文字史料」に対する好事家的な探求を超えた、言語学・社会学・歴史学・地域研究などとの多面的な接合が求められる。また、この点が実現されれば地域・文化を架橋する研究、すなわち、イスラーム諸地域の現地語表記や、他の非漢字漢語表記体系(たとえば、女書・トンガン語等)と広い比較研究の可能性も拓ける。




6.参考文献

白寿彝編[1952]『回民起義』V(中国近代史資料叢刊第四種、上海神州国光社)。

陳 元龍[1999]「東郷族的“消経”文字」(『中国東郷族』(『甘肅文史資料選輯』50)、甘肅人民出版社)。

馮 増烈[1982]「“小児錦”初探:介紹一種阿拉伯字母的漢語併音文字」(『阿拉伯世界』第1期)。

顧頡剛他[1988]『甘青聞見記』(『甘粛文史資料選輯』28、甘粛人民出版社)。

濱下武志[1997]「地域とは何か」(濱下・辛島編[1997]所収)。

Israeli、 Raphael & Johns, Anthony eds.[1984]Islam in Asia, vol.2(Magnes).

Lipman、 Jonathan[1984]“Patchwork Society, Network Society: A Study of Sino-Muslim Communities”(in Israeli & Johns eds.[1984]).

劉 迎勝[2001]「関于我国部分穆斯林民族中通行的 “小経”文字的几個問題」(『回族研究』第3期)。

馬 克[1986]「談借用“消経”注音識字的可行性 ― 在甘肅一些少数民族中掃盲的一個措置」(『甘肅民族研究』第4期)。

馬 自祥[2000]『東郷族文化形態與古籍文存』(甘粛人民出版社)。

不  詳[――]『紀事』(白寿彝編[1952]所収)。


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