ギニア・ビサウのクレオル語                             市之瀬敦(上智大学) 1.ギニア・ビサウの言語状況  西アフリカ、セネガル共和国とギニア共和国という2つのフランス語圏の国に囲まれ るようにして位置する旧ポルトガル領の国ギニア・ビサウ共和国(以下「共和国」は省 略)は、独立を達成したのが1974年9月、1994年の時点で人口が105万人 (注1)を数えるだけの小さな国である。  ギニア・ビサウでは独立と同時にポルトガル語が公用語として採用され、今日までず っと司法、行政、教育、マス・メディアなどの公的機関で独占的に使用されているが、 その普及は植民地時代と変わらず、あまり進んでいないのが実状である。  独立後これまで唯一実施された言語調査(1979年)の結果を分析・報告した Macedo(1989)によれば、ポルトガル語の話者は全人口の5ないし6%にすぎず、また首 都ビサウ在住の宣教師Ferraro(1991)の報告によれば、その数字はさらに低く、わずか 2%であり、どちらの数字を見ても、ポルトガル語が国民全体の日常生活の言語となっ ていないことがよくわかる。独立後のギニア・ビサウでポルトガル語が使用される場面 と、ポルトガル語を話す人々の数は非常に限られており、現時点では、公用語の役割を 名目的に果たすだけといっても過言ではあるまい。  このように、全人口に対するポルトガル語話者の比率は低く、したがって異なる言語 を話す集団間のコミュニケーションを可能にするリングァ・フランカの役割を果たすこ とはできずにきたのだが、その代わりに、ポルトガル語の語彙をベースにして形成され たクレオル語(現地ではクリオル語 'Kriol' あるいはキリオル語 'Kiriol' と呼ばれ る)が解放闘争が始まった1963年を境に、都市部、農村部を問わず国内で広く使用 されるようになってきた。  現在、クレオル語は特にビサウ(Bissau)、ジェバ(Geba)、バファタ(Bafata)、ファリ ン(Farim)などの都市部では、住民が日常の交流で使用する唯一の言語であり(Kihm 1994: p7)、またポピュラー音楽の歌詞、漫画、映画(注2)などいわゆる大衆文化の 作品で使用されることも多い。  クレオル語話者の比率に関しても、上記2つの報告に基づく数字を挙げることがで き、1979年の言語調査によれば、全人口の44%が、そしてFerraro(1991)によれ ば、その75%がクレオル語を話すという。この2つの統計数値のいずれを見ても (注3)、クレオル語がポルトガル語より圧倒的に多くの話者を持つことがわかる。 また、後に再び言及するがるが、最大の民族語バランタ語の話者の比率は全人口に対し 25%であり、したがって、クレオル語がギニア・ビサウで最も多くの話者に話される 言語であることもまちがいない。  しかし、次に触れる民族諸語と同じくクレオル語も国民語(Lingua Nacional)という抽 象的な地位を与えられるのみで、しかもその地位は憲法等で規定されているわけではな い。公的機関で使用されるポルトガル語のような高い社会的地位は与えられていない。  今のところクレオル語の公用語的な使用が見られるのは、毎日合計1時間ほどのラジ オ・ニュース、子供たちの識字化教育、いくつかの選ばれた小学校で実験的に行われる 低学年の授業だけであり(注4)、公用語化へ向けた具体的な動きは見られない。  民族諸語の数に関しては諸説あるが、ギニア・ビサウのクレオル語の研究者である Couto(1994: p45)は「全部で15言語以上」という数字を挙げており、そのうちバラン タ語、フルベ語、マンディンカ語の話者数が相対的に多い(やはり1979年の言語調 査によれば、それぞれ全人口の25%, 20%, 10%によって話される)。  フルベ語やマンディンカ語はギニア・ビサウ以外でも西アフリカで広く話され、研究 も進んでいるが、それ以外のギニア・ビサウの民族諸語はまだ詳しく調査されていな い。民族諸語の公用語化が検討されたことはあるが、これまで具体的な政策は提示され ておらず、成人の識字化教育、いくつかのラジオ番組に使用される場合があるのみとな っている。  以上の概略からもわかるように、ギニア・ビサウの言語状況は複雑であるが、今のと ころ法的拘束力を背景に持つ包括的な言語政策は存在しない。強いて言えば、解放闘争 を指導し1973年1月暗殺されたアミルカル・カブラルが生前書き残した、独立後の 公用語はクレオル語でなくポルトガル語にすべきだという見解(注5)がこれまで大き な指針となってきた。 2.ギニア・ビサウのクレオル語の形成  ギニア・ビサウのクレオル語は、15世紀後半以降西アフリカ沿岸部に姿を見せたポ ルトガル人と現在のギニア・ビサウにあたる地域の沿岸部および河川流域に住んでいた アフリカ人が接触、交易を行い、その交流の結果、おそらくは16世紀半ばまでには形 成されていたと考えられる。  ギニア・ビサウのクレオル語の形成に関し、確かにマクロ・レベルの理解のためには この記述で十分だろう。しかし、15世紀後半以降ギニア・ビサウ沿岸部および河川流 域一帯に見られた言語状況をより詳細に眺めると、クレオル語はポルトガル人とアフリ カ人の接触から生まれた、という一言では片づけられないことがわかってくる。  クレオル語は以下に見るように、自らの文化的アイデンティティーを棄てアフリカ人 として生きようとしたポルトガル人(ランサドス 'Lancados')、彼らと結婚あるいは同棲 したアフリカ女性、ランサドスとは逆にポルトガル人になろうとしたアフリカ人(グル メテス 'Grumetes')が一体となって作った共同体で、日常的な交流が繰り返される中 から形成されたのである。  15世紀半ば以降、ギニア・ビサウ沿岸部と河川流域にやって来たポルトガル人の大 部分は短期間の来訪者であったが、一部の者たちはその付近のアフリカ人社会の中に定 住し、アフリカ女性と結婚あるいは同棲し、さらにアフリカ的な生活習慣を取り入れ、 本国からやってくるポルトガル商人や他のヨーロッパ商人とアフリカ人の間に立つ中間 商人の役割を果たすようになった。彼らはランサドスと呼ばれた。  ランサドスとはポルトガル語で「(アフリカ社会に)身を投げ出した者、放り出され た者」という意味を持つが、Lobban & Lopes(1995: pp124-125)によれば、彼らは商人 かつ船乗りであり、その中には政治犯罪を犯し本国に留まることができなくなった者、 異端審問を逃れアフリカにやって来たユダヤ人も少なくなかったという。  ランサドスがアフリカ人として生きようとしたポルトガル人であったのに対し、逆に ポルトガル人になろうとしたアフリカ人も現れた。彼らはポルトガル語でグルメテス (=キャビン・ボーイ)と呼ばれ、ランサドスがアフリカ人と取り引きをする際の補佐役 的存在となり、常に行動を共にした。グルメテスは元々はアフリカ人であるが、ポルト ガル人の衣服を纏い、またキリスト教に改宗し、見かけも中身もポルトガル人になろう としたのだった。  「キャビン・ボーイ」を意味するグルメテスという呼称が彼らに与えられたのは、 沿岸部と河川流域の交易が船上で行われることが多かったからである。  さて、ランサドスとグルメテスには当初、共通の言語がなかった。前者はポルトガル 語話者であり、後者はアフリカ諸語の話者であった。そこで、互いの意志の疎通を図る ため彼らの間でポルトガル語ピジンが話されるようになったと考えられるのである(な お、そのポルトガル語ピジンは人と商品の往来が頻繁だったカボ・ベルデ側でも使われ たと思われる。  ギニア・ビサウのクレオル語とカボ・ベルデのクレオル語との関係については後で 触れる)。  このピジン語は形成時においては単純な構造しか持たないものだったにちがいない が、時間の経過とともに語彙を増し、表現の幅を広げていったことだろう。そして、 ランサドスが沿岸部や河川流域に暮らすアフリカ女性と結婚し(注6)、やはりポルト ガル語ピジンで意志の疎通を図るようになり、いよいよ子供が生まれたとき、ギニア・ ビサウ沿岸部と河川流域の言語状況にとり重要な変化が起こったのであった。  異なる母語を持つ両親にとり共通の言語はポルトガル語ピジンだけであったが、その二 人の間にできた子供が最初に学ぶ言語はやはり両親に共通の言語、つまりそのポルトガル 語ピジンであっただろう。なぜなら、もし父親の母語(=ポルトガル語)を学べば母親と 話すことができず、逆に母親の母語(=アフリカ諸語)を身につければ父親と話すことが できなくなってしまうからである。そして(伝統的な定義に従えば)そのピジン語が母 語化した時点でギニア・ビサウにクレオル語が誕生したのである。このクレオル語はラ ンサドス(とその家族)やグルメテス(とその家族)にとりコミュニケーションに便利 な共通言語となったばかりでなく、さらにヨーロッパ人ともアフリカ人ともいえない彼 らにはアイデンティティーの拠り所ともなった。また同時に、クレオル語の形成はギニ ア・ビサウ沿岸部および河川流域においてヨーロッパへの扉となる新しい言語が誕生し たということでもあった。  ところで、現在もかなりの程度まで相互理解が可能なカボ・ベルデのポルトガル語語 彙クレオル語とギニア・ビサウのクレオル語の関係は今でも議論の的となっている(注 7)。ギニア・ビサウのクレオル語はカボ・ベルデのクレオル語が奴隷商人などにより 大陸側へ伝えられたものなのか(カボ・ベルデ起源仮説)、あるいは最初にギニア・ビ サウで生まれたクレオル語が逆方向に伝えられたのか(ギニア・ビサウ起源仮説)、そ れとも共通のピジン語がそれぞれの地でクレオル化したのか(共通起源仮説)、研究者 の間で未だ結論は出ていないのである。  上記の説明からわかるように、筆者はカボ・ベルデ起源仮説はとらず、ギニア・ビサ ウのクレオル語はギニア・ビサウ側で形成されたと考えているが、とはいえそのクレオ ル語がカボ・ベルデのクレオル語の起源になったとも見なしていない。というのは、 Carreira(1984)によれば、カボ・ベルデにもクレオル語の形成に適した環境が見られた からである(小さな島で少数のヨーロッパ人と異なる言語を話す多数のアフリカ人がプ ランテーション社会を発展させた)。  ここで歴史を思い起こせば、ギニア・ビサウとカボ・ベルデはほぼ同時にポルトガル 人により発見され(それぞれ1446、1444年)、すぐに頻繁な交易が行われるよ うになったのであった。そして、その交易の中心にはランサドスとグルメテスがいたの だが、彼らの間では先述したようにポルトガル語ピジンが使われた。筆者の考えでは、 このポルトガル語ピジンが後にギニア・ビサウとカボ・ベルデでそれぞれ独立してクレ オル化されたのであり、共通のピジン語を起源とするが故に両国のクレオル語は今も相 互理解が可能なのだと思われるのである。  なお、カボ・ベルデ起源仮説とギニア・ビサウ起源仮説の両方を合わせたかのよう な、折衷的ともいえるこの共通起源仮説の支持者には他に、ギニア・ビサウに8年間暮 らしたフランス人クレオル語学者Rouge(1986)、同じくフランス人クレオル語学者Kihm (1994: pp3-4)、そしてブラジル人クレオル語学者Couto(1994:p32)がいる。  これに対し、カボ・ベルデ人研究者がもっぱらカボ・ベルデ起源仮説をとり、ギニア ・ビサウ人研究者がギニア・ビサウ起源仮説を取るところには、両国間のライバル意識 が感じられるようで興味深い(注8)。  ギニア・ビサウのクレオル語の生誕地がアフリカ大陸側なのか、それともカボ・ベル デなのか、いずれにしても、クレオル語は16世紀から今世紀の半ばまでの長い間、ポ ルトガル商人をはじめとするヨーロッパ商人との交易がかつて行われた沿岸部や河川流 域のいくつかの都市(ビサウ、カシェウ、ジェバなど)でのみ話されていたことはまち がいない。  同国のクレオル語が農村部へと普及し始め、異民族間のリングア・フランカとなるの は、1963年に始まり1974年の独立まで続いた解放闘争の期間だが、それはゲリ ラ兵士たちが農民たちと意志の疎通を図るときクレオル語を利用し、また人口の領土内 移動がその時期に頻繁となったからであった。そして、この普及のプロセスは独立後 も続いているのである。 3.「フランス語の脅威」と「ポルトガル語諸国共同体」  最後に、ポルトガル語のように公用語と認められているわけでもなく、またクレオル 語や民族諸語のように国民語と称されるわけでもないが、ギニア・ビサウの言語問題を 考えるとき無視することのできない言語=フランス語と、ギニア・ビサウを含むポルト ガル語圏アフリカ諸国の言語状況の未来を占うとき注目に値する新しい動き、「ポルト ガル語諸国共同体」(Comunidade dos Paises de Lingua Portuguesa)の正式な発足(1 996年7月17日)について簡単に触れておきたい。  ギニア・ビサウを代表する社会学者Lopes(1988: p239)は「ギニア・ビサウはポルトガ ル語の衰退、ポルトガル政府の無策、そしてフランス語の脅威がはっきりと見て取れる 国として至る所で話題にされる」とかつて述べた。  確かに彼の言うとおり、ギニア・ビサウで、そしてポルトガルで、(ギニア・ビサウ における)「フランス語の脅威」(Ameaca de frances)という言葉を新聞紙上で見るこ とがある(注9)。つまり、ギニア・ビサウでポルトガル語が公用語の地位をフランス 語に奪われてしまうのではないかというのである。  しかし、先述した1979年実施の言語調査によれば、フランス語の話者は全人口の わずか0.2%にすぎなかったのである(Ferraro(1991)はフランス語話者に関する数 値を挙げていない)。ギニア・ビサウにおけるフランス語というテーマに関し、198 8年12月21日から1989年1月6日までギニア・ビサウを訪問した際、筆者は国 立調査研究所(Instituto Nacional de Estudos e Pesquisa)研究員、教育省職員、ジャ ーナリストなど数名に意見を伺ったことがあるが、その中でジャーナリストでもあり作 家でもあったJorge Ampa Cumelerboは、「ポルトガル語に対する『フランス語の脅威』 が盛んに言われるのは、それだけポルトガル語に対する期待がギニア・ビサウで大きい からであり、『フランス語の脅威』なる言葉は大袈裟すぎる」と指摘した。上記の 0.2%という数字を見ると、同氏の「『フランス語の脅威』なる言葉は大袈裟すぎ る」という発言内容には説得力があるように思われる。  にもかかわらず、ギニア・ビサウの言語問題について考察するときフランス語を無視 できないと筆者が考えるのは、ギニア・ビサウがセネガルとギニア共和国というフラン ス語圏の国と国境を長く接しているという地理的要因もあるが、それだけでなく、同国 でポルトガル語が限られた範囲でしか普及していない現実がある一方、首都ビサウにあ るフランス文化センターが活発なフランス語普及活動を展開し(たとえば、クレオル語 を生かしたラジオ・フランス語講座やフランス映画の名作の上映)、着実な成果を収め ている事実が存在するからである。  さらに、国際機関の会議に参加する機会の多いギニア・ビサウのエリートたちの大半 がポルトガル語だけでなくフランス語も話すという点も考慮しておくべきだろう。  Lopes(1988:p241)は、「ギニア・ビサウ人は周辺諸国との交流のためにフラン ス語を必要としている」と述べているが、もちろん国民全体にとりフランス語が必要と いうわけではないものの、国際社会との交流を考えたときポルトガル語だけでなくフラ ンス語を話せる人間が欠かせないことは確かである。  その言葉の適否はともかくギニア・ビサウで「フランス語の脅威」が話題にされ、ま た世界全体では英語による支配がインターネットの普及などによりさらに進んでいく現 実を前に、ポルトガル語を公用語とする国々、すなわちポルトガル、ブラジル、アンゴ ラ、モザンビーク、カボ・ベルデ、ギニア・ビサウ、サントメ・プリンシペの7カ国の 首脳は1996年7月17日リスボンに集まり、「ポルトガル語諸国共同体」を正式に 発足させることを決定、共通の言語=ポルトガル語を柱に文化、経済、外交面など広く 協力関係を発展させる旨約束した。この「共同体」の発足は英語圏の「コモンウェル ス」、フランス語圏の「フランコフォニー」への対抗措置ということができるだろう。  ポルトガル語を使用する国と地域を統合する共同体の創設は30年以上も前から検討 されていたにもかかわらず、それぞれの国の利害が絡み、なかなか具体化されなかった のであるが、今回やっと実現の運びとなったのである。  創設されて間もないため、この「共同体」の誕生がポルトガル語圏アフリカ諸国の言 語状況にこれからどんな影響を及ぼすのか断定的な見解を述べることはできないが、そ の規約の「第3条(目的)C項」に、「ポルトガル語普及計画の具体化」がある以上、 これまでにも増してポルトガル語の普及が上記7カ国の政治家やジャーナリストの間で 話題にされることは予想できるだろう。  元々この「共同体」の創設に言語学者は関与しておらず、政治家や外交官や財界人の イニシアティブによって実現されたものであり(注10)、したがって、具体的な言語 政策が取られることになるのか否かは現時点では判断がつきかねるが、もし積極的なポ ルトガル語普及策が実行された場合、ギニア・ビサウに限っていえば、それは今でもか なりの程度まで進んでいるクレオル語の脱クレオル化(=ポルトガル語化)をなおいっ そう加速化させ、さらにはその消滅につながる事態も考えられる(注11)。  ポルトガル語を柱とする共同体の誕生が今後ギニア・ビサウなどポルトガル語圏ア フリカ諸国の言語状況にどんな影響を及ぼすのか、注意深く見守ってゆきたい。                    注 1.『最新 世界現勢 1996』 平凡社 108頁 2.1987年制作されたギニア・ビサウ最初の長編映画『モルトゥ・ネガ(Mortu nega)』(死者は否定した)は全セリフがクレオル語である。 3.Ferraro(1991)が挙げる統計数値はどれも出所が明らかにされておらず、その意味 で、1979年の言語調査に基づく数字に比べ信頼性に欠けるが、79年から91年ま での12年間にクレオル語の普及が進んだことはまちがいなく、その点を考慮すれば、 「75%」もけっして荒唐無稽な数字ではないだろう。 4.その試みの推進者は教育省付属機関「国立教育発展研究所」(Instituto Nacional para o Desenvolvimento da Educacao)の若手研究員たちである。 5.Cabral (1990) "A questao da lingua" PAPIA Vol.1. No.1. p.60 6.Brooks(1993: p137)によれば、ランサドスは土地の有力者の家族、親族の一員であ る女性と結婚するケースが少なくなかったという。 7.カボ・ベルデのクレオル語は大きく二種類の方言に分けることができる。一つはサ ント・アンタン(Santo Antao)島、サン・ビセンテ(Sao Vicente)島、サンタ・ルジア (Santa Luzia)島、サン・ニコラウ(Sao Nicolau)島、サル(Sal)島、ボア・ビスタ(Boa Vista)島を含むバルラベント(Barlavento)諸島方言、今一つはマイオ(Maio)島、サンテ ィアゴ(Santiago)島、フォゴ(Fogo)島、ブラバ(Brava)島から成るソタベント (Sotavento)諸島方言である。このうちギニア・ビサウのクレオル語と相互理解が可能 なのは後者のソタベント諸島方言である。  バルラベント諸島方言は脱クレオル化の度合いが強いため、ギニア・ビサウのクレオ ル語との間で相互理解が不可能なのである。 8.カボ・ベルデ起源仮説をとるカボ・ベルデ人研究者には例えばCarreira(1984: p35) やSilva(1984: p31)がおり、一方ギニア・ビサウを装\するクレオル語研究者Bull(1989: p24)はギニア・ビサウ起源仮説を支持しているように思われる。なお、Couto(1994: pp31-32)は、カボ・ベルデ起源仮説はカボ・ベルデ国民の間で常識であり、ギニア・ビ サウ起源仮説はギニア・ビサウ国民の間で通説だとしている。 9.最近の例としては、ポルトガルの週刊紙『EXPRESSO』(1996/7/20)の「読者欄」に掲 載されたDaniel Rosenthal氏(職業不明)の投書があり、ギニア・ビサウでフランス語 の普及が進む一方、ポルトガル語の話者数が一向に増えないことを嘆いている。 10.「ポルトガル語諸国共同体」創設までに最大のイニシアティブを発揮したのはブ ラジルの外交官Jose Aparecido de Oliveiraである。 11.Kihm(1994: pp7-8)は、国営テレビ局の開設(89年9月)やポルトガル企業の進 出増加により、90年以降すでにポルトガル語の影響が徐々に強まりつつあり、さらに クレオル語からポルトガル語へ至る連続体の形成も進んでいることから、クレオル語が 数十年後に消滅してしまう事態を予測している。                   参考文献 Brooks, George E. (1993) Landlords & Strangers. Westview Bull, Benjamim P. (1989) O crioulo da Guine-Bissau: Filosofia e Sabedoria. ICALP/INEP Cabral, Amilcar. (1990) "A questao da lingua" PAPIA Vol.1. No.1. pp.59-61 (「No Pintcha」紙(1976/2/21,24,26)より転載) Carreira, Antonio (1984) O crioulo de Cabo Verde: Surto e expansao. 2a.edicao. Lisboa Couto, Hildo H. (1990) "Politica e planejamento linguistico na Guine-Bissau" PAPIA Vol.1. No.1. pp.47-58 −−−−− (1994)O crioulo portugues da Guine-Bissau. Helmut Buske Verlag −−−−− (1996) Introducao ao estudo das linguas crioulas e pidgins. Editora Universidade de Brasilia Ferraro, Dionisio. (1991) "O crioulo na evangelizacao" PAPIA Vol.1. No.2. p.118 市之瀬敦 (1991) 「ギニア・ビサウの言語状況について」 Anais No. XXV. pp22-34 Kihm, Alain. (1994) Kriyol Syntax: The Portuguese-based Creole Language of Guinea-Bissau. John Benjamins Publishing Company Lobban, Richard. & Marlene Lopes. (1995) Historical Dictionary of the Republic of Cape Verde. Third edition. The Scarecrow Press Lopes, Carlos. 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