5Field+ 2013 01 no.9数値を下げることが目標とされるようになる。 ここで私は思うのだ。私にとって大事な「モッゴ」の死を、「1」などという数字に置き換えて済ませていいものだろうか? 彼の父親が語った「クリニックに連れて行った」「注射を打たれた」「薬を飲ませた」「寝かせていた」という行動のひとつひとつをきちんと洗い直したうえで、そのプロセスを点検することこそが重要なのではないだろうか。 数字で把握できることは数字で「量的に」把握すればいい。だが「1」とカウントできる事柄を「質的に」理解しようとすれば、ひょっとしたらまだ知られていない変数、それも決定的ななにかをもたらす変数を明らかにできるかも知れない。文化人類学者がやってきた民族誌記述には、もともとそのような「変数の発掘」という役割があったのだ。村の診療所にて 1993年に初めて村に住み込んだとき、生活の拠点は、村の一隅に設営したテントだった。ある時期、私のテントは診療所と化していた。人々は夜明け頃から集まり、さまざまな身体の不調を訴えて薬をねだった。「うちの子が熱を出したの」「ずっと頭が痛いんだ」「傷口がずきずきするんだよ。」私は医療者ではないので治療などできるはずもないが、怪我の処置くらいならやってあげていた。 怪我が多い理由ははっきりしている。当時、多くの人が裸足だったし、村中切り株だらけだったからだ。私は応急処置を施してから、クリニックに行ってきちんと治療するように念押ししたが、彼らはよほどのことがないかぎり医療施設には行かなかった。10キロ離れたところにあるクリニックでは治療費と薬代を請求されるし、無料で薬をもらえる施設までは6時間も歩かなければならなかったからだ。 そんな村にも、5年ほどまえに診療所が建設された。医師も看護師もいないが、トレーニングを受けた保健普及員が常駐している。 診療所の壁には模造紙が貼られ、さまざまな記録が貼り出されている。エチオピアでは子どもの予防接種の普及を推進しているので、ある模造紙には「予防接種の実施件数」を示す表やグラフが示されている。それらはある村の保健状況を数字では伝えているが、そのすべてを伝えきってはいない。 ある母親が予防接種のために赤ちゃんを連れてきた。登録されている赤ちゃんには予防接種の記録をする厚紙(母子手帳のようなもの)が一枚渡されていて、そのお母さんもちゃんと持って来ていた。ところが、である。 保健普及員が紙を読み上げる。「この赤ちゃんの名前は○○ちゃんね?」すると母親は、「違うわよ、この子は××よ」と返答する。母親は以前に予防接種に来たことのある他の子の紙を持って来たのだ。「この子は前に注射を受けたことがある?」と聞いても、母親は「さあ?」である。予防接種件数という結果を示す以前に、まずは、それが「数字になる場面」を知ることが必要とされるのである。「質」と「量」の協働作業 先に挙げた乳幼児死亡率のように、国際保健分野で必要とされる根拠、すなわち「エビデンス」はみな数字である。世界の生老病死は、数字によって量的に把握される。そのためか「調査」といえば、世間のもつ一般的なイメージはアンケート調査とその統計的な解析である。 他方で、文化人類学のフィールドワークは、状況に応じた「あの手この手」だから、アンケート調査のように洗練されていない。多くの場合、研究者が一人で、小さな村に住み込んで、住民と生活を共にしながら、せっせとノートを取り、写真を撮り、録音する。得られたデータの多くはインタビューであり、数値化しにくい。 アンケートのような量的研究と、ケースヒストリーのような「物語集め」すなわち質的研究は、対象へのアプローチといい、学問的なスタンスといい、まったく相容れないものだとされてきた。だがそれは違う。前者は「標準化された手続きで型を抜いていく方法」、後者は「地域の脈絡に合わせて方法を変幻自在に変えていく」方法なのであって、そもそも対立などしていない。数えられるものは数え、数えられないものは描写すればいい。それぞれに得意技があり、苦手な技がある。 近年は国際保健や公衆衛生の分野において、質的研究と量的研究を組み合わせた「ミックス法(混合研究法)」が注目されている。社会をまるごと量的に捉える方法と、変数を発掘し、物語によって深めていく質的方法を組み合わせることで、多くのことを明らかにできるのだ。 いま、一人の男の子が命を落とした。今年、この村ではこれこれの病気で○○人の子どもが死んだ。そのことを説明するための変数をひとつひとつ洗い出していくこと、そうした作業を通してこそ生老病死をより深く知ることができるのである。エチオピア北部、アムハラ州の農村にて。玄関先にぶら下げられている瓶には、教会で清められた「聖水」が入っている。飲めば薬になり、吊しておけば魔除けになるとされる聖水に対する信仰は、農村だけでなく都市の住民の間にも根強い。不衛生な聖水を飲むことで下痢をする人もいるだろうが、保健プロジェクトは聖水信仰のような宗教的なことを調査対象としない。4番目のケン君。屈託のない笑顔で私に懐いてくれていたが、2011年の7月頃に亡くなった。開発NGOが配布しているポスター。家畜が水を飲む溜め池で、ハマル民族の女性が水汲みをしている写真を背景に、「汚い水を飲むと病気になります」というメッセージが謳われている。
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