FIELD PLUS No.9
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23Field+ 2013 01 no.9に彼らの生活の上でハンガリー語が必要ないからである。私の知り合いのハンガリー人は「文化や風習、好み、考え方、我々のそれはオーストリア人である。が、心の中にはまだハンガリー語が残っている。分裂しているのだ」と告白する。 かくいう私も、現在東京都下で暮らしているが生まれ故郷である茨城の方言を使う必要性は全くない。家庭内は大阪出身の妻とここで生まれた一歳半の娘の三人であるが、妻との会話は東京方言と関西方言を織り交ぜたようなものである。したがって、ことばを話し始めた娘に茨城方言は伝わることはないだろう。もちろん必要性がないからそうなるのであって、そこには一抹の寂しさも感じない。なぜか。私自身が故郷の茨城にいる頃から東京志向が強かったせいもある。そう思わせるほどに東京と北関東には文化的にみて圧倒的な彼我兵力の差がある。日本における標準語と方言の関係を考えるとき、同時にオーストリア・ブルゲンラント州のハンガリー語話者たちを思い浮かべずにはいられないのである。隣町ウンターヴァルトにあるハンガリー・メディア情報センターと現地の保育園が共同で制作したハンガリー語・ドイツ語・クロアチア語の3言語による子供向け絵本。ブルゲンラントではともにマイノリティであるクロアチア人が多く住む町にも配布している。ブルゲンラントのハンガリー語話者の方言を記録調査したことで有名な言語学者イムレ・シャムの生家にある記念碑。こちらもハンガリー語(左)とドイツ語(右)の2言語表記。ハンガリーとの国境にはワイン畑が広がる。ハンガリー人の彼が飲んでいるのはワインになる前の「シュトルム(Sturm)」という発酵途中の濁り酒。発泡性があり胃に良く、味わいは葡萄ジュースに似て大変飲みやすいが、アルコールはしっかりあるので注意が必要。当時ハンガリー王国の西端を切り取った形となり、そうして生まれたのがブルゲンラント州であった。ここに住んでいたハンガリー人たちはハンガリー王国国民からオーストリア共和国国民になったのである。 これ以降、彼らは自らのことばであるハンガリー語を捨てることになる。社会言語学の用語では「言語シフト」というが、彼らは所属国家のオーストリアでは必要のない自らの言語であるハンガリー語を捨て、オーストリアの国家語であるドイツ語を選択したのである。現在、オーバーヴァルトのハンガリー語話者は約千人と言われるが、高齢化が進み、子や孫の世代はハンガリー語が話せない人も珍しくない。ことばのバリエーション ブルゲンラントのハンガリー語はハンガリー語の方言の一つであるが、簡単にハンガリー語の方言とは呼べない問題がある。それがドイツ語要素の混入である。オーストリアの国家語であるドイツ語に囲まれて暮らしてきたブルゲンラントのハンガリー語は純粋なハンガリー語の方言とは異なり、ドイツ語要素を含んだ、いわば不純なハンガリー語とみなされてきた事実がある。標準語・方言という関係に加えて、言語接触の結果を含めてドイツ語からハンガリー語への言語的バリエーションを見てみると、①ドイツ語標準語、②地元ドイツ語、③ドイツ語要素を含むハンガリー語、④地元ハンガリー語、⑤ハンガリー語標準語に分類できることが分かる。そして、ブルゲンラントのハンガリー語話者はこれらのうち、③、④、⑤を話していることになる(ブルゲンラントのハンガリー語は③と④)。 学問上の分類はこれで良いかもしれないが、実際にブルゲンラントに住むハンガリー語話者からすれば、自らのことばは「純粋なハンガリーの方言ではない」「ドイツ語の語彙や表現が混在した汚く誤ったもの」と言われ続け、彼ら自身もそう認識してきた。こんなことも、彼らが自らのことばを捨て去るにあたり十分な理由であったかもしれない。方言以上の特徴を求めて このブルゲンラントのハンガリー語であるが、私が注目しているものとして所有表現の特徴を簡単に説明したい。そもそもハンガリー語の所有表現自体が興味深いものである。日本語でいう「AのB」が所有表現と考えてもらいたいのであるが、この所有に関わることばである「の」は所有者Aに付いたものである(「A-の B」)。ハンガリー語の所有表現はこれとは逆に、いわば「A B-の」となる(Laci autó-ja「ラツィの車」でいうと、autó「車」の後に付く-jaが所有を意味することば)。これは世界の言語の中でも珍しい構造であると言われている。 所有するものが単数であるか複数であるかの違いを見ると、標準ハンガリー語の場合と異なり、ブルゲンラントのハンガリー語では単数所有の形式を複数形にするという方策を取っている。すなわち、上で見た「車」であれば、「私の車」なら autóm(autó「車」-m「私の」)で、車を複数持っていた場合、標準ハンガリー語では autóim(autó「車」-i(複数)-m「私」)であるところ、ブルゲンラントのハンガリー語では、autómiëk(autó「車」-m「私の」-iëk〔複数形〕)となる。 なぜこのような形式を取るに至ったのか、理由は分からない。他地域のハンガリーの方言にこのようなものは見当たらない。もしかすると、ブルゲンラントのハンガリー語話者に特有なこと、すなわち、周囲をドイツ語に囲まれて生活してきたことに答えが隠されているのかもしれない。ことばを捨てること 学問上の興味以外でも、オーストリア・ブルゲンラントのハンガリー語話者たちが自らのことばであるハンガリー語を捨てる、すなわち固執しない、そういうメンタリティに私はずっと惹きつけられてきた。もちろん、彼らも好き好んで自らの言語を捨てているわけではなかろう。単

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