22Field+ 2013 01 no.9オーストリアに生きるハンガリー語 ここは欧州、オーストリア共和国の最も東に位置するブルゲンラント州にある町オーバーヴァルト。オーストリアの国家語はドイツ語であることは言うまでもないが、その他に隣国ハンガリーの言語であるハンガリー語を話す人々がいる。それが私の調査対象である。 「(オーストリアの首都)ウィーンから東はアジアだ」と言ったのは19世紀ウィーン会議を主導したオーストリア帝国外相クレメンス・メッテルニヒだ。実際にはオスマントルコ帝国に蹂躙された国々に対して欧州最後の砦となったウィーンを述べたことばだそうだ。そうでなくともオーストリア(Österreich)という国名が意味する「東の国」という呼び名を論理的に考えれば、これより東に欧州の国はないはずである。いずれにせよ、最も狭い意味での「ヨーロッパ」という概念の東端がオーストリアであると考える人は多かろう。 そのオーストリアよりさらに東にあるハンガリー語だが、シベリアのウラル山脈を故地とするウラル語族に属するこの言語は、オーストリアで話されるドイツ語やその他欧州の言語とは大変異なる文法を持つ言語である。多くの欧州人はハンガリー語を理解不能なものとして捉えているが、理解不能なものだからこそ、それがすなわち彼らがハンガリーを「アジア」と呼ぶ理由なのかもしれない。 さて、その理解不能なものたちの最も西端に位置するのがオーストリア共和国ブルゲンラント州に生きるハンガリー語話者たちである。よくよく考えると、自らを理解不能なものとみなす人々に取り囲まれた辛い立場にいることになる。辛い立場になった理由 第一次世界大戦後、1921年までブルゲンラントという州は存在しなかった。すなわち、理解不能なものたちは本来の祖国であるハンガリー(王国)に生活していたのである。それが第一次世界大戦で当時のオーストリア・ハンガリー二重君主国の敗北により、オーストリア帝国とハンガリー王国の間に新たに国境線が引かれることになった。この国境線は言語や方言は残されるべきである。いまや誰もが首肯する主張だ。が、そうではない運命のことばもある。彼らはいかにして自らの「ことば」を捨て去ろうとしたのか。その理由を探る。フィールドノート ことばを捨て去る人々オーストリア・ブルゲンラント州の ハンガリー語方言事情大島 一 おおしま はじめ / AA研研究機関研究員現地オーバーヴァルトの市境にある看板。ドイツ語(上)とハンガリー語(下)の2言語で表記。オーバーヴァルトのハンガリー語話者たちのシンボル的存在であるキリスト教カルヴァン派教会。毎週日曜のミサはハンガリー語でも行われている。キリスト教カルヴァン派教会が開催する秋のお祭りに来ていたハンガリー人たち。ハンガリー語が話せるハンガリー人は高齢者に限られつつある。彼らの子たちはドイツ語話者と結婚し、孫たちはあまりハンガリー語が話せないという。ハンガリーオーストリアブルゲンラント州ブダペストオーバーヴァルト郡ウィーン
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