14Field+ 2013 01 no.9アンマンエルサレムテルアビブヨルダン川西岸地区パレスチナ自治区ガザ地区ヨルダンイスラエルシリア黒 海地 中 海地 中 海死 海 パレスチナやイスラエルを研究対象とする人々の中で、フィールドワークをおこなう人の数は多くはない。パレスチナ人の離散体験の聞き取り調査や、難民キャンプ内での生活状態に関する社会調査など、特定の領域を除けば、大半の研究は図書館で進められるといえるだろう。歴史や政治、思想の研究の方が本流である。フィールドに行く人はむしろ、平和運動か、援助、報道に関わる人が中心だ。 この地に来る日本人は、その魅力に囚われて、国連やNGO、JICAなど立場を変えて関わり続けることも多い。その中でも私はもう古株である。長い間関わり続ける中で、私の調査フィールドや研究アプローチもいくつか大きな変化を遂げた。避けては通れない紛争の存在が、私に自問自答を促し、試行錯誤を続けてきたためだ。フィールドでの経験が、次のフィールドワークの中身や方向性を決めることも多い。そんなこれまでの軌跡を、振り返ってみたい。はじめてのエルサレム訪問 私がはじめてエルサレムを訪れたのは、1998年の夏のことだった。イスラエルとパレスチナの間で和平に向けた直接交渉が始まった1993年のオスロ合意から5年。予定されていた進展はなかったものの、まだまだ曖昧な希望がもたれていた時期だった。私は、ベツレヘム(パレスチナ自治区中部の町)の貧困層への支援活動をおこなうNGOのツアーに参加した。初の海外旅行だった。 到着してすぐに、眠い目をこすりながら行ったのがヤド・ヴァシェム(ホロコースト博物館)だった。世界史で学んだユダヤ人迫害の歴史について、真剣に展示に見入る私。だがその横では、兵役中の若いイスラエル兵士のグループが床に足を投げ出して説明を聞いていた。その無作法とも無頓着ともいえる姿が、驚きとともに印象に残った。 翌日は、貸切バスでガザ地区へ。現在は巨大な越境管理施設が建てられて物々しいエレツ検問所だが、その当時はのどかなものだった。だだっ広い場所にぽつんと置かれたイスラエル政府とパレスチナ自治政府の越境事務所にそれぞれ立ち寄り、少し待たされたもののすんなり通過。開設されたばかりの日本政府代表事務所を訪れ、「パレスチナの国家建設について研究したい」と話すと、「難しいでしょうね」と駐在スタッフには苦笑された。 バスで移動し、はじめて足を踏み入れた難民キャンプ。コンクリート打ちっぱなしの平屋がぎっしりと立ち並んだ、衛生的とはいえない空間は、昨日までいたエルサレムとはまるで異国の風景だった。車でたった数時間の距離にある場所の間での、すさまじい経済格差。それを許容するのがこの地域を分断する紛争という構造なのだと考えると、学んできた国際政治と目の前の光景がはじめて有機的につながる気がした。 このときはまだ本格的な調査を始めていたわけではない。だがここでのフィールド体験は、その後の私の問題意識を決める原風景となった。ヨルダンでのフィールドワーク その5年後、私は大学院生として、ヨルダンで調査を始めていた。オスロ合意後の和平交渉が行き詰る中、難民となって60年が経過した人々のパレスチナへの帰還権に対する考え方を知りたいと思った。調査に入ったのは2003年2月、隣国のイラクではアメリカの宣戦布告で、まさに戦争が始まろうとしていた。 調査地がヨルダンになったのは、偶然の要素もある。当初行きたくて仕方なかったパレスチナ自治区は、2000年に始まった第二次インティファーダ(民衆蜂起)の影響でイスラエル側とパレスチナ側の衝突が続き、治安が安定していなかった。長期の調査者を派遣できる政情にはないと判断されていたためか、渡航研究費に1年間応募し続けても採択されず、仕方なく調査地をヨルダンに変える中から学ぶ紛争地パレスチナ/イスラエルでのフィールドワーク錦田愛子にしきだ あいこ / AA研対立する人々の間を行き来し、話を聞く。忍耐の要る作業だが、外国人である自分にしかできないとの気負いもある。政治情勢のため、調査地を変えねばならないことも。紛争地での研究は、慎重さと身軽さが重要だ。変える1はじめて訪れたビーチ難民キャンプ(1999年8月、ガザ地区)。アーモンドの花が咲くパレスチナの春(2006年3月、ドゥーラー)。
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