FIELD PLUS No.7
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6エメラルドグリーンの海に滑り出すと、船は少しずつスピードを上げながら、次々と島を追い越してゆく。手すりから身を乗り出し、水しぶきを受けながら、潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。この景色を眺めるのも、もう何度目だろう。まさか日本に? ピコハン! ウタマヌトゥンジ この呪文のようなナゾの言葉は、私のフィールドワークの舞台、波照間島の人々が話す言葉だ。 波照間島は琉球列島の最南端に位置し、島を一周するのに自転車で1時間もかからないほどの小さな島だ。琉球の言葉といえば、ナンクルナイサー、メンソーレ……こんな言葉を連想する人もいるかもしれない。しかし、これは沖縄本島の首里方言で、琉球列島で話されている数多くの言葉の中の1つにすぎない。琉球の言葉(琉球諸語)には、お互い理解できないほど異なる方言が、島ごと、集落ごとに数多くある。そして波照間方言も含め、そのほとんどが失われつつある。 「琉球の言葉を調査したら?」フィールドワークの候補地を相談した教官にそう言われ、愕然としたことは今でも覚えている。消滅の危機に瀕した言語の文法書を書きたくて大学院に入学した。そのような言語を調査するのだから、当然外国に行き、氷上で犬ぞりに乗るような生活を送るか、ジャングルの奥地で昆虫を食べるような生活を送るのだと覚悟をしていた。それなのに、まさか日本国内とは――全くの想定外だった。 だが、「いっそのこと最南端へ」と軽い気持ちで波照間島に向かった私は、そこで衝撃を受けることとなる。皆が何と言っているのか、さっぱり分からない。単に音の連鎖としか認識できない。中には仮名文字では書き表せない、聞いたこともないような音も聞こえる。まるでカウンターパンチを食らったようだった。この鮮烈な一撃で、私は波照間方言に魅了されてしまった。ないないだらけ 親戚がいるわけでもなく、知人の紹介があるわけでもない。同じくらいの敷地に、同じ間取りの家が並ぶ。営業マンよろしく、調査に協力してもらえる人を探しさまよい歩く。どの道を曲がろうとも進もうとも、同じ風景にしか見えない。さっきも通った道だろうか? 真夏の日差しが、服の上からでも容赦なく肌に突き刺さる。 波照間方言のネイティブスピーカーは殆どが70歳以上で、皆、日本語と波照間方言のバイリンガル。この島では玄関のドアが開け放たれていても、必ずしも人が家にいるとは限らない。呼びかけても返事がないことは日常茶飯事だ。小さな集落のはずなのに迷子になりながら、今日もトボトボと来た道を引き返す。長期的に調査に付き合ってくれる人はなかなか見つからない。 さて、どうしたものか。宿に戻り、お裾分けしてもらったヤギ汁をすする。 よく知らない相手。静かな部屋。録音。大抵の人が口をつぐむのも仕方がない。問題はアマーの仕事を手伝いながらあれこれ質問し、波照間方言を教えてもらった。波照間島にはコンビニはもちろん、スーパーどころか、信号機すら存在しない。島には集落が5つあり、各集落に1つずつこのような売店がある。この売店は建替えられ、もう以前の面影はない。昼間は青い空とエメラルドグリーンの海が広がる。夜の空は代表的な星座を見つけるのがとても難しいくらいすべての星が明るい。街のネオンに霞んでしまうような星さえもが、煌々と輝いている。こんな穏やかな海でも、船が大揺れあるいは欠航するほど波が高いこともある。海を渡らずして波照間島には行けないので、船酔いする人は覚悟を。辿り着くにも運が必要だ。「ピコハン」はピコピコハンマーの略ではない。「危ない」という意味の波照間方言である。Field+ 2012 01 no.7ことばと仲間がつながる島――日本最南端の有人島・波照間島で只今奮闘中麻生玲子あそう れいこ / 日本学術振興会特別研究員(AA研)奄美諸島沖縄諸島八重山諸島琉  球  列  島宮古諸島大東諸島与那国島黒島竹富島石垣島西表島鳩間島新城島小浜島八重山諸島波照間島

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