FIELD PLUS No.7
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23Field+ 2012 01 no.7新築祝いなどでも再び頻繁に歌掛けが行われるようになった。そこではもっと長く、数時間にわたって歌が交わされることもよくある。 こうした山歌の場でおもな歌い手となるのは30代以上の中年男女である。たとえそこで男女の恋が歌われても、かつてのように真剣な恋愛に発展することはない(もし発展したら不倫さわぎになって大変である)。現在の山歌はむしろ遊びとして、娯楽として歌われるようになっている。 そうしたなか、新たに歌を学ぶ人たちのためにプイ学会が歌集を発行したり、歌い手がこまめにノートに歌詞を書き付けていたりする状況も、かつては見られなかった現象である。この変化は、この地域で山歌がほとんどの場合プイ語(プイ族固有の言語)ではなく中国語で歌われるようになったこと、そして識字率が向上していることを意味している(ちなみにプイ語には基本的に文字がない)。貴州省の辺境では今でもプイ語が普通に話されていて山歌もプイ語で歌われているが、ここ貴陽市ではかなり高齢の人でないとプイ語を自由に使いこなせず、プイ語で山歌を歌えるのはほぼ70歳以上の人だけである。よって、今復興している山歌はほぼ完全に中国語で歌われるものとなっている。 このように、現在の山歌は80年代以前の状況から大きく様変わりしている。そうして、人々の間でまだ生き続けている。例えば、張さんと、電話の向こうにいた彼女の歌友だち王さん(仮名)の間にも。ある日の山歌 張さんに電話があった次の週、春節から18日目の日の朝に私は張さん、李さんと待ち合わせて、電話をしてきた王さんの娘夫婦が主催する「満月酒」へと出かけていった。バスに40分ほど乗って、祝い事が行われている家に着いたのは12時頃。すでに家の前では「欄ラン路ルー歌コー」が歌われていた。これは客を迎えるにあたって主人側の人々が飾りを付けた棒を持ってとおせんぼし、客と掛け合いをして客が十分に歌えたら通すという遊びである。ただ来た時間が遅かったため終わりかけで、私たちはこれに参加せずにそそくさと昼食をいただいた。 3時のおやつの時間になると、主人側がテーブルとイスを用意して、来客をもてなす歌の場をセッティングした。そこに20人ほどの人々が車座となって山歌が始まった。「今日私たちは山歌を歌ってお祝いします」「今日は心から喜んで歌を歌います」など、それぞれが招かれた喜びや主人へのお祝いを歌っていく。だがこの輪からも張さんと李さんはさっさと抜けてしまう。本当の楽しみはこの後にあったのだ。この歌掛けの場にいた中年の男性たちと、この輪から離れるために別室へ移動して歌掛けを始めた。今度は恋の歌掛け「情歌」だ。どちらも腕のある歌い手、最初は男女それぞれの組がお互いあいさつを交わす程度だったが、時間が経っていくにつれて熱が入り、「あなたとは別れがたい」など、既婚者としてはなかなかきわどい歌を歌って大いに盛り上がった。そうしていつしか日が暮れた。歌声は続く 結局この日、私を含めた3人は家に帰れなかった。熱心に歌いすぎて時間が遅くなってしまったのだ。しかも掛け合い相手の男性陣は、夜まで掛け合いを続けるために張さんたちを帰れなくしようと、最終バスの時刻をごまかしていた。このことが発覚すると李さんは「ひどい!」とぷりぷり怒りながら歌を切り上げて近くに住む親戚の家に泊まりに行ってしまった。張さんは「しょうがないねえ」という感じでそのまま王さんとこの家で談笑していた。私はというと、たまたま持っていた張さんの孫の満月酒のお祝いを収めたビデオをこの家の人たちに見せていた。ここでも人々は歌っていた。それを見る人々の目はにこにこしていた。そこには歌の時間が流れていた。 次の日、3人は朝早くバスに乗ってそれぞれの家に帰った。この日からもう1年半経つが、今でも張さんと李さんはどこかで歌っているのだろう。たまに、歌いすぎて帰りのバスを逃すへまをしながら。欄路歌。手前が主人側で盛装している。赤い帯がぶら下がった竹の棒が道をとおせんぼしている。その下にあるやかんの中身はここの名物うるち米で作ったお酒で、これとたばこでお客を迎える。客は天秤棒でお祝いの品を持ってきて、この棒の前に置いて山歌を歌う。大量の食事を用意する主人側の人々。情歌を掛け合う張さんと李さん(右側のふたり)、および主人側の男性陣。昼食後の集まり。テーブルを囲んで歌を掛け合う。大半が中年以上の女性である。ちなみにテーブル手前のお盆に乗っているのは飴とヒマワリの種。貴州省では食事の前やお客さんが来たときに出すとりあえずの軽食として、生や煎ったヒマワリの種をよく食べる。

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