FIELD PLUS No.7
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20Field+ 2012 01 no.7紛争が終わって10年 「あっちの家でね、また2人移っていったよ」 私が1年半ぶりにリコロ村(仮名)を訪ね、ひとしきり挨拶をしたところで、居候していた家のおばあちゃんがこう言った。私が以前「誰が何故アンゴラへ出発するの」と皆に質問攻めしていたことを、おばあちゃんは覚えていて、誰かが村を去ってアンゴラへ行ったことを教えてくれたのだ。 ザンビア西部州リコロ村は、1947年につくられた、アンゴラ出身の人びと(以下、移住民)が住む村だ。私は移住民の生計維持の変化を調査するため、2000年以降リコロ村でフィールドワークを続けている。村の設立以降見られなかったアンゴラへの移住が始まったのは、アンゴラ紛争が停戦を迎えた4年後の、2006年のことだ。私もリコロ村で何度か、アンゴラへ旅立つ人びとを見送ったものである。 ザンビア西部州はもともと18世紀より建国されていたロジ王国の領土だった。そして同地では、王を頂点とした支配体制のもと、多民族が共生してきた。移住民が西部州に移住をはじめたのは、19世紀末以降と史料に記録されている。そしてその後移住民が断続的に西部州へと移住し、西部州のあちこちに移住民の住む村が増えていった。 リコロ村は設立当時、移住民十数人が住む小さな村だった。しかしその後20世紀中葉にアンゴラ紛争が激化してからは、アンゴラ農村部での爆撃やゲリラの襲撃で村を焼け出された人、家族が軍隊に誘拐された人たちの多くが、難民認定を受けないまま、徐々にリコロ村のような移住民の住む村へと移り住んできた。これらの人びとは、「ザンビアに来てまで監視をうけるような生活は嫌だ」「見つけられて誘拐される」という理由で難民キャンプへは行かず、親族、知人、ときには全く見ず知らずの移住民を頼ってきた。そして今日まで、ザンビア地域社会の一員として生きてきた。そんな彼ら移住民が、アンゴラへと移住をはじめる今日までにザンビア西部州で築いてきた生活は、どのようなものだったのだろうか。平和な多民族共生社会 ザンビアは平和な内陸国である。ザンビアが国境を接するのはアンゴラ、モザンビーク、ナミビア、ジンバブエなど、20世紀中葉以降紛争を経験した国ばかりである。国境ができる以前から人がさかんに往来していたこれらの国々のなかで、ザンビアは1964年と早くに独立を果たした。そしてその後大規模な紛争を経験することなく、独立解放闘争や内戦が展開された周辺諸国から難民を受け入れ、また首都ルサカで和平会合の場などを提供してきた。 このザンビアには、80をこえる多くの民族集団が混住している。こうした多民族混住はアフリカにおいて珍しくない。しかしザンビアの民族集団は、ほとんどが、現在のコンゴ民主共和国に築かれていたルバ・ルンダ王国の一派に祖先をもつ、バンツー系諸語を話す農耕民である。そのことを理由に、「おれたちザンビア人は皆近しい親族だ。だから紛争もないのさ」と自負するザンビアの人も多い。 ザンビア西部州に建国されていたロジ王国では、その中央集権的な王国組織のもと、ロジと同様にルバ・ルンダ王国から南下した他の民族集団を支配下におき共生してきた。そうした歴史をもつ西部州において、今日営まれる移住民の生計には、土地利用という目に見える形で、多民族共生社会の背後にある権力関係が浮かび上がってくる。使えない豊かな土地 リコロ村は首都ルサカから700 km、ザンビアとアンゴラの国境から100kmの距離にあり、西部州のなかでも辺境に位置する。西部州の気候は年間降水量が800mmほどで季節は雨季と乾季に明瞭に分かれている。同州中央にはザンベジ川が縦貫しており、毎年の川の洪水により周囲に豊かな氾濫原が形成されている。リコロ村はザンベジ川氾濫原東岸の、台地上に位置している。その台地は、砂土が100m以上と深く堆積する場所である。この土壌改良の難しい、非常に痩せた台地には林がアフリカ南部に位置するザンビアの農村には、アンゴラ出身の人びとが住んでいる。アンゴラ紛争が停戦となってもうすぐ10年。限界のみえるザンビアでの生活のなかで、彼らはこれからどう未来を選ぶのだろう。フィールドノート 未来を選ぶ──岐路に立つアフリカ南部の農民たち村尾るみこ むらお るみこ / AA研研究機関研究員村の遠景。ウッドランドに囲まれている。村の木陰で集う女性たち。キャッサバが一面に植えられている焼畑。放棄されつつある焼畑(手前)と2次林(奥)。

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