FIELD PLUS No.7
20/36

18Field+ 2012 01 no.7チベット医学 インド・ダラムサラにあるメンツィカン(チベット医学暦法研究所)病院の1日はスタッフ全員による薬師経の読経からはじまります。私は外国人のアムチ(チベット医)だからこそ、チベット人からの信頼を得るために誰よりも大きな声で読経をしたものでした。そして、いよいよ診察がはじまります。患者を診る際にはまず「タシデレ(こんにちは)」と笑顔で迎えて雑談からはじめます。 「どちらの出身ですか? リタンということはダライラマ六世の詩で詠まれた場所ですね」。こうしてチベットの地理や歴史、文化に精通していることもアムチとして大切な資質にあげられます。そして患者の両手を取って脈を診ます。研修当初は経験豊富な指導医が患者の右手を、私が左手の脈を診て学びました。心臓に不整脈がないか。血圧に異常はないか。脈が亢進していないか。両手の脈に差異はないか。そのうえでチベット医学の理論に則り、ルン・ティーパ・ベーケン(漢方では気・血・水に相当する体液論)という3つの体質のどこに異常があるか判断していきます。その中でもルンの病の診断には比較的、脈診が有効です。また、定期的に診察している患者ならば、脈の推移で病気を発見できることがあります。しかも、できれば朝、起きて間もない時間帯の脈だと、より正確に診断することが可能です。脈というのはちょっとした心の変化や、体の動きで変化してしまうので、病の情報を得るには意外と不安定な要素なのです。そこで、実際の診察現場では脈診よりも問診を重視しています。診察室の風景 女性が就職試験を受けるための健康診断に訪れたときのことです。普段なら「はい、健康ね」と簡単な問診だけで終わらせるはずなのに、このときはなぜか指導医の様子が違いました。脈を診るなり「ちょっと、あなた、左手を上げてみなさい」と厳しい口調で告げたのです。普段は温厚な先生の言葉に私は戸惑いを感じましたが、事実、女性の左手は上がらないのには驚かされました。 「手が上がらないのにどうして証明書にサインができるのよ」。指導医の叱責に患者はばつが悪そうな顔で帰っていきました。 「先生、どうして分かったんですか。私は全く気がつきませんでした」 「フフフ。脈を診たらなんとなくね」 おそらく先生は脈の拍動ではなく、手首の筋の感触に違和感を感じたのでしょうが、明言はしてくれませんでした。 また、研修を始めて2ヶ月が経過した4月のある日、診察室に患者が飛び込んできたときのことです。 「ねー、あなた、脈を診てくれるんでしょ。お腹が急に冷えちゃって痛むのよ」 あまりの勢いに「指導医の先生が戻るまで少しお待ちください」という口上も忘れて、私は女性の手をとって脈を診ることにしました。「おめでとう、君が記念すべき私の第一号の患者さんですよ」と告白すると不安を覚えるだろうから、黙って心の中で記念式典を催す。とりあえず不整脈はないし脈の亢進もない。「脈に異常はありませんが、ちょっと冷えやすい体質ですね」と告げ、そのまま脈を診ながら「昨晩は何を食べましたか?」と問診に移る。そして触診の温もり小川 康 おがわ やすし / チベット医学中央委員会、アムチ(チベット医)チベット医はヒマラヤの山々を駆け巡って薬草を採取する。乾燥や製薬も手作業で行われる。そして、その大地や薬草に触れた手で、今度は患者の脈に優しく触れていく。触る3指導医のもとで脈診を行う筆者。ヒマラヤ山中で行われる薬草鑑別試験。300種類ほどの薬草を学び、試験には101種類が出題される。治療に用いる丸薬は170種類ある。すべて自然の薬草・鉱物で作られる。イ ン ドスリランカバングラデシュブータンネパールヒマーチャル・プラデーシュ州ダラムサラマリー

元のページ  ../index.html#20

このブックを見る