FIELD PLUS No.7
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14Field+ 2012 01 no.7トルコアンカライスタンブル黒 海地 中 海 私は、現在のトルコを中心に中東から東欧にかけて1300年ごろから1922年まで存在したオスマン朝の歴史を専攻しています。とりわけ18世紀から19世紀にかけて国家組織の中でどのように文書が作成され、管理されていたかということを主な研究テーマとしています。私の仕事の中心は、アラビア文字で手書きされたトルコ語の文書をひたすら読んで整理することです。膨大に残るオスマン朝の文書 歴史の研究の素材のことを「史料」と呼びますが、そのうち最も重要なのは、その時代の当事者によって作成された一次史料と呼ばれる文書や帳簿です。オスマン朝の首都であったイスタンブルには、かつて大宰相府と呼ばれた中央官庁の跡地の一画に首相府オスマン文書館が存在していますが、ここに今日伝わる文書や帳簿だけでも、1億数千万点に上ります。これは江戸城で保管されていた幕府文書の実物が火災に遭ってわずかしか残っていないことと比べると、驚くべきことと言わなければなりません。 オスマン朝を研究する醍醐味は、こうした史料の実物を、作成された時を超え、当時と同じ場所で、手に取って「触る」ことにあると言えるでしょう。モノとしての紙が伝える情報 文書の研究は、書かれている文字を読むことが基本になることは言うまでもありません。しかし文書が伝える情報は、文字による言語情報にとどまらないのです。 当時の文書はほとんどの場合、紙という媒体に作成されます。この紙というモノそのものがもつ情報が、文字に負けず劣らず重要なこともあるのです。歴史学で重要なのは、研究対象を時間軸に正確に位置づけることですが、文書の場合、その最大の手がかりは日付です。ところがオスマン朝の文書は、様式によっては日付が入っていないことも多いですし、日付が記してあったはずの文書でも、その部分が欠損していることもままあります。日付のない文書であっても、研究上ある程度時代を特定することが求められますが、そんな時はどうするのでしょうか。 もちろん文書の内容からおおよその時期が推定できることもありますが、それができない場合も少なくありません。そこで出番になるのは、例えば筆跡です。オスマン朝の歴代の皇帝たち(これをトルコ語でパーディシャーと呼びます。世界史の教科書ではスルタンとなっていますが、当時単にスルタンと言うと、皇女のことですから念のため)は直筆でたくさんの文書を残しています。不思議なことに彼らが書いた文書にはほとんどの場合日付が入っていません。そこで1人1人のパーディシャーの筆跡を覚えて、およその年代を特定できるようになる必要があります。最初は難しいですが、少し慣れてくると、すぐ誰の筆跡かわかるようになります。 筆跡でわからない場合、本誌第2号のインタビューでもご紹介したことがあるのですが、紙の透かしを見ることになります。当時の紙は、パルプを枠に流してすく工程で透かしを入れるのが普通です。透かしは工房の商標のようなものなのでしょうが、時期によってデザインが目まぐるしく変わります。ですから実際に文書を手に取って光にかざしてみることが、年代特定の有力な手がかりになるのです。 しかしこの方法も万能ではありま時を超えて紙を「触る」髙松洋一 たかまつ よういち / AA研文書を研究する際には、実物に「触る」ことにより、モノとしての紙がもっている情報を十分に引き出すことが重要である。しかしいつでもそれができるとは限らない。トルコの文書館で体験したエピソードを紹介する。トプカプ宮殿の「平安の門」。観光客をかき分けつつここをくぐると、右手奥に文書館がある。大宰相府の「至高の門」。首相府オスマン文書館は入って右側にある。入るとすぐに警官の厳重なボディ・チェックが待っている。首相府オスマン文書館。オスマン朝時代の19世紀に建てられた「文書の蔵」の建物を使用している。首相府オスマン文書館内部の2階。建物はスイス人建築家による作品であるが、2012年に移転が計画されているので、ここが利用できるのもあとわずか。触る1

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