フィールドプラス no.6
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(編集部注:本稿は、2010年夏ごろに企画・執筆がなされましたが、諸般の事情により本号への掲載となったものです)写真5 五里埔に建てられた臨時公廨で行われた太祖夜祭(2010年10月22日)。[注]*1 台湾南部を襲った台風。コンクリートの建 物が丸ごと倒壊したニュース映像をご記憶 の方も多いだろう。*2 数百名が生き埋めなど行方不明になったと いう。*3 平埔とは、台湾の先住民のうち、漢化の早 かった民族の総称、シラヤはその中の一民 族である。なお、台湾では、先住民は、原 住民と称されている。*4 土地神を祀る施設。*5 野外の文化展示スペース。*6 シラヤの始祖である太祖を祀る施設。*7 被災地は、先住民地域であり、異なった文 化や伝統をもつ複数の先住民族が被災した。*8 「慈済」は仏教系団体。宗教活動以外に、慈 善活動、教育などにも力を入れている。 モーラコット台風の被災者に対して、「大 愛園区」と名付けた土地に新しい家を提 供した。ただし、様々な先住民族を混住さ せ、被災者に彼等の従来の風俗習慣とは異 なる、慈済の理念に基づく生活様式に慣れ るように求めている。府が制定した「モーラコット台風災害復興特別条例」の随所に見ることができた。即ち政府は、一方では、災害救助を優先し、国民の立場に立って、文化の多様性*7を尊重して復興事業を行うと述べたが、他方では、国土や環境資源の保全に関わる問題の解決が、住民の生活方式や文化、コミュニティの保護に優先するとしたのである。 被災者と政府の非対等な関係の中で、被災者の願い、NGOおよび政府の処理法はそれぞれ焦点が異なっていた。間に立った協会ができたのは、正確な情報を提供し、正義に照らして合理的な要求を提出するように弱者である被災者を励ますことだけであった。このような活動では、理念と実際の不一致から、異論が噴出し組織が分裂しがちであるが、小林では、親族及び婚姻関係の結束力が強く、相互協力を重んじる社会的特質があったため、集落の再建は楽観的かつ積極的に進められた。 青年たちは文化の創造に積極的であった。「焼狼煙(大きい狼煙を上げる)」という先祖の霊に知らせる形式をとる儀礼を行って、政府の不合理な政策に対して抗議を行った。また、「慈済大愛園区」*8に居住するシラヤの人々を集め、伝統手芸や歌舞を互いに学ぶ活動も新たに行っている。これらの活動は人々の心を動かし、政府の政策にも影響を与え写真2 被災後、小林村は河川敷きになってしまった(2009年8月16日、林清財撮影)。た。結局、小林村だけは他の五つの被災先住民族とは異なり、他の民族と混住する必要のない独立した再定住地(小林一村、小林二村)を得ることが政府から認められた。文化の復興へ向けて 被災者が赤十字の仮設住宅に移って一年余りがたって、2011年1月、五里埔に小林一村の90軒が建ち、公廨・廟寺・広場ができ、小林文物館も着工した。小林二村もまもなく高雄市杉林区に建てられる。小林二村は小林村から40キロ離れているが、小林村の前線基地として、新しい文化を構築しつつ小林一村の伝統文化とともに輝いていくだろう。協会は小林村のために、調査研究を三つ行うことになった。そのうちの一つは「シラヤ族のタブロン社群伝統文化調査および口述歴史と映像記録計画」である。政府の先住民行政を行う部門は、この地域の先住民を支援する組織を設立し、文化行政を行う部門も、民族文化の調査と映像記録を行う事業を協会に委託した。 協会は2010年10月、小林再建のための二回目のシンポジウム「南台湾平埔族群文化学術シンポジウム」を行い、更に、「夜祭」(写真5)に協力した。「夜祭」の祭儀歌謡は、1930年代に浅井恵倫教授が採集した録音を引用した。東京外国語大学AA研が保管する浅井教授の録音及び調査ノートが、小林村の村民が祭典の奥義を再構築する際の根拠となったのである(写真6)。2010年の夜祭も台風の中で行われたため、遠隔地に住む平埔族の親族は参加できなかった。それでも小林村民は「来年小林一村が落成した後の、次の夜祭では、皆を誘って祝おうではないか!」と期待に胸をふくらませている。写真3 公廨の前での太祖の聖誕祭の祈り(2004年旧暦9月15日)。写真4 五里埔に建築中の臨時公廨(2009年10月)。写真6 小林村の儀礼の再興の参考とされた浅井恵倫教授撮影の写真。29Field+ 2011 07 no.6

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