フィールドプラス no.6
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台湾(中華民国)特別寄稿AA研外国人研究員写真1 緑満ち溢れる小林村の遠景(2004年12月19日、簡文敏撮影)。28父の日の悪夢 2009年8月8日の父の日、モーラコット台風*1があの美しい小シヨナー林村を土石流で呑み込んでしまい(写真1、2)、全村で僅か40余人が救助されたというニュースが伝えられた*2。 小林村は、高雄市で数少ないシラヤ族タブロン社群の人々による毎年1度行われる夜祭を継承してきた村である。これまで僅かに残されてきたシラヤ文化の消失を心配した筆者や仲間の学者たちは、災害後、8月16日に記者会見を開いた。会見では、政府の救援、復興に対する無策、妥当性のない水利政策などに批判が集中した。また「小林村自救会(以下、自救会)」会長の指揮の下、命からがら逃げ出した村民も涙ながらに故郷を還して欲しいと叫んだ。記者会見には数百人が参加したが、残念ながら、政府関係者は現れなかった。 記者会見当日の午後、私たちは集まって「小林平埔原住民族文化重建協会(小林平埔先住民族文化復興協会、以下「協会」とする)」*3をたちあげた。そして、自救会の同意を得ながら、小林の文化復興に関する事業を積極的に支援して行くことを決定した。小林村消滅の危機 小林村は、歴史的由緒のある村で、小林、五里埔、南光、錦地、埔尾の小集落からなっていた。小林はその中でも最も人口が集中する。集落の両端の土地公廟*4が集落の境界となり、中心には、村全体で崇拝する神を祀る「北極殿」と呼ばれる廟があった。家屋は、大部分が皆空間配置や並び方が均一で、どの家の前にも広い前庭が作られていた。川沿いには現代建築技術によって建てられた平埔文化園区*5、公コンカイ廨*6(写真3)、その前に広場とシラヤ劇場(舞台)、親水公園や児童遊戯施設、駐車場などが揃っており、コミュニティ作りと平埔文化の再生運動とが結びついていた。更に、村には清朝時に行われた山地討伐によって異郷で死亡した兵士を祀る石の塚、日本時代に建てられた派出所などあり、異なる時代の国家権力による支配の痕跡が残されていた。それらの上に村人たちが作りあげた建築が加わり、多彩で多元的な記憶が実体化されていた。言い換えれば、彼らの記憶は、様々なモノを通して存在していたばかりではなく、更に、その背後に民族間の相互行為、文化変化などが隠されていた。しかし、今回の災害によって、人や風景は瞬く間に消え去り、多くの人が悲しみのどん底に突き落とされたのである。 災害救助作業は、まるでもう一つの大きな災難のようであった。救援物資をどこに配分するかで毎日紛糾し、台風通過後も大雨が続き、道路は寸断され、橋も落ち、修復した道路がまた雨で通れなくなった。協会員は台湾各地で仕事をもっていたので、政府に対して何かを要求する際に集まる以外は、電話で連絡を取り合うのがせいぜいだった。この他、様々な宗教団体が初七日だの四十九日だのと法事をしに入ってきたばかりか、政府の官僚や、記者、ボランティア、NGO団体、学者などがひっきりなしにやってきて、やれ救助だ、調査だ、研究だといっては被災者に再三にわたって被災時の状況を無理やり話させるなど、まるで被災者を拷問刑にかけているようだった。村落の再建 被災72日目、臨時の公廨が小林村の五里埔に建てられた(写真4)。83日目(10月29日)には、協会が被災者、政府関係者、学者を集め、「南台湾平埔族文化再建シンポジウム」を開催した。政府からも高官ではないものの代表者が参加するなど、被災地への関心は低くなかった。会議では平埔文化の保護や復興、救災、法律の整備、災害の責任追及などに関して学者から批判や建言がなされた。特に、被災者の避難救助や村の再建において、政府と被災者との間に存在する不均衡な関係が指摘された。この不均衡な関係は、政小林村高雄市Field+ 2011 07 no.6学者と災害 台湾小林平埔原住民族文化重建協会の試み林 清 財 りん せいざい(リム チンツァィ) / 国立台東大学(台湾)編訳:三尾裕子 みお ゆうこ / AA研陳 麗 君 ちん れいくん(タン レイクン) / 国立成功大学(台湾)        一昨年の台湾での水害からの復興の道程は、インフラの整備だけではなく、親密な人間関係に基づく地域の社会・文化の維持・発展の重要性を私たちに教えてくれている。台湾の先例は、東日本大震災からの復興にも示唆を与えてくれそうだ。(三尾裕子)

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