フィールドプラス no.6
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文化人類学解放講座サウンドデモ活動は一種の「デモンストレーション」でもあった、と思っています。これはさきほどお話した「カヤンバ」というセッションの前にひらかれます。ディゴの憑依霊たちは「いたずら好き」で、わけもなく人から魂を盗みとり、それをバラバラにして、どこかに隠したり捨てたりするといわれています。魂を盗まれてしまった人は病気になり、生きる活力を失います。なので、その魂をとりもどすための捜索が行われるのです。――またシャーマンが大活躍ですね。【小田】そうです。シャーマンを先頭に、弟子たちがドラムを打ち鳴らし、歌を歌いながら、村中をさがしてまわるのです。ドラムや歌を聞きつけ、子どもから年寄りまで、大勢の人たちがその後をついてゆきます。シャーマンのまわりを女性たちが取り囲み、コーラスと声援で行進をもりあげます。 農閑期なので、沿道から大勢の人が飛び入りで参加します。沼や池にさしかかると、霊に憑依されたシャーマンが指図して、バラバラになった魂をひとつずつ見つけ出しては、ヒョウタンの中に詰めてゆきます。それが昼から夕方にかけて2~3時間くらい続きます。 最後にみんなで魂を盗まれた人の家にゆき、魂を盗まれた人の頭の上にヒョウタンをのせ、シャーマンが息をふきかけて魂を吹き込みます。そして、集まった人たち全員が見守る中、シャーマンが呪文を唱えながら、ポンポンと頭にふたをしてみせるのです。 夜に行われるセッションにも演劇的な面がありますが、この「魂の捜索」の方はより広いコミュニティをまきこんだ「路上劇」になっていて、そこには「デモンストレーション」の側面もあったと思います。実質的にこの行進は、その日、セッションが行われることのアナウンスメントになっていたので、広報メディアとしての機能を持っていました。でも、それだけではありません。社会・政治的な側面もあります。 霊による病気として語られるものには心因性のものも多く、うつやノイローゼからくるメンタルなものが含まれています。この「魂の捜索」には、それをコミュニティの問題としてシェアし、コミュニティの支援やサポートをよびかける社会的側面があります。魂の捜索の最中に「私の魂も見つけて!」という声があがることからも、この魂の捜索は、同じような問題を抱える人たち、主に女性たちのシンパシーをよびおこすものでした。そして、この魂の捜索に大勢の人たちが参加し、自分のために徹夜でセッションにつきあってくれることは、その人にとって大きな励ましとなっていたようです。そこには、かつて機能主義が主張したような「社会統合」とよべるような力はありませんが、声なき者たちの声を社会にむかって発信し、エンパワメントする側面があったのは確かです。 そこがデモと似ていると思います。デモには社会全体を統合する力はありませんが、参加者同士のあいだに一体感や連帯感を生み出すのは確かです。そして、デモがそうであるように、それは社会を統合するよりもむしろ、その社会のさまざまな問題をあかるみにだし、矛盾や問題点を可視化するものです。 とりわけディゴ社会では、イスラーム化が進んでいるため、こうしたカルトは「おんなこどものもの」として低くみられています。パブリックな空間でスペクタクル的に展開される「魂の捜索」には、メインストリームの文化に対するカウンターアクションとしての面もあったでしょうし、また女性たちの社会参加や地位向上を求めるプロテストとしての面もあったと思います。魂の捜索はそうしたマイノリティの声や思いをデモンストレートするものです。その意味で、シャーマニズム・カルトはディゴ社会におけるサブカルチャーだと思います。だからこそ、僕はそれに興味を持ったのだと思います。26「文化人類学解放講座」教材資料集より「アクティヴィスト人類学者たち」。イラク戦争に反対するサウンドデモ(2003年)のために制作した広報ポスター。Field+ 2011 07 no.6「文化人類学解放講座」教材資料集より「オルタナティヴ人類学」。原発に反対するサウンドデモでのマーチングバンドの演奏(2011年、東京・代々木、撮影=村田賢比古)。写真中央が小田マサノリ氏。もうひとつのメディアを目指して【小田】魂の捜索では僕はシャーマンの弟子の1人としてドラムを叩いて

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