フィールドプラス no.6
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平和に暮らすことを望んでいるのは英語の話者たちだけではないはずで、アフガンの人たちだって同じ気持ちのはずだと想像したのです。 そこでAA研の同僚に頼んで、その歌詞をアラビア語に翻訳してもらい、それを英文の上に併記したポスターをつくって、国際展の会場に展示したのです。これについては浅田彰さんが評論を書いてくださり、今でもネットで読めるはずなので、どうかそちらをご覧ください(編集部注:浅田彰「ジョンとヨーコは『イマジン』と言った」批評空間アーカイヴ http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/voice0112.html)。 それはさておき、そのとき僕はこうしたアクションが同じ国際展に出展している作家たちからも連鎖反応的に起きてくることを期待していたのですが、残念ながらそうなりませんでした。そしてそのことにひどく失望しました。同時代の芸術であるはずの現代美術がその使命を果たしていないと思ったのです。なので、そうした状況に対する批評的なアクションとして、1年後の2002年9月11日に現代美術家を廃業するという宣言をしたのです。 その1年後に今度はイラク戦争が起こりました。AA研には多くのアラブ研究者がいます。そういう環境なので、何もせずにはいられませんでした。文化人類学者としてできることはないけれども、表現者として自分にできることをやろうと思い、知り合いたちと一緒に反戦のデモやパフォーマンスをやりました。またそれと並行して「サウンドデモ」という音楽を使ったデモの企画と運営にも関わりました。そしてこのイラク反戦のデモをきっかけに、僕の活動の場は大学や美術館から「ストリート」へと大きくシフトしてゆきました。23Field+ 2011 07 no.6ディゴのシャーマンが描いた一本足の霊「カニャンゴ」のドローイング。「カヤンバ」とよばれるラトル(がらがら)を演奏するシャーマンとその弟子たち(1994年、ケニア)。音楽と歌で憑依霊をよびよせ、踊らせる徹夜のセッションは明け方まで続く。シャーマンの弟子になる――そもそも小田さんはどんなきっかけで人類学の道へ足を踏み入れたのですか?【小田】僕が生まれた家は文房具店で、僕は長男だったので、大人になったら父の跡を継いで文具屋になるつもりでした。ところが「ダメでもともと」という気持ちで受けてみた大学にうっかり合格してしまい、そこで人生がすっかり狂ってしまいました(笑)。大学で学ぶ学問のどれもがおもしろかったのです。しかも当時は「ニューアカ」とよばれるブームのさなかで、山口昌男、中沢新一、栗本慎一郎といった人たちの本を通じて構造主義と人類学を知り、「これはおもしろい」と思って、それで文化人類学を専攻することにしたのです。本をかたっぱしから読みあさり、学部では文化人類学の学説史で400枚の卒業論文を書きました。それで大学院への進学を勧められ、修士の1年のときにケニアで最初のフィールドワークをしました。修士の4年のあいだに3回のフィールドワークを行い、帰国後、マラリアを発症しながら一気呵成に書きあげた修士論文が800枚(笑)。この情熱とエネルギーはひとえにそれまで勉強をしてこなかったおかげだと思っています。――ケニアのどのあたりで調査なさったのですか?【小田】ケニアの海岸部です。バントゥ系の9つの言語集団からなる「ミジケンダ」とよばれる連合体があって、その中のディゴというエスニック・グループでフィールドワークをやりました。――フィールドではどのような研究をなさったのですか?【小田】ディゴでは何を研究するかをあらかじめ決めずにフィールドワークをはじめました。最初はディゴの言語の辞書づくりからはじめてディゴの文化を学び、その中でシャーマニズム・カルトに興味を持ったので、研究してみることにしました。 ディゴには「ムガンガ」とよばれる呪医がいて、その中でも「憑依霊の呪医」とよばれている、ある男性シャーマンの弟子になったのです。そのシャーマンは、北米のネイティヴ・アメリカンのシャーマンのようにストイックな感じではなく、酒飲みで、女ぐせが悪く、口がうまい。でも、その土地ではすごく人気のあるシャーマンでした。「よいシャーマンは、よい

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