フィールドプラス no.6
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あるときはAA研の広報担当研究員。あるときはユニークな展示活動で注目を浴びる現代美術家。そして、日本にサウンドデモを定着させた百戦錬磨のアクティヴィストであり、映像や音楽を駆使した対話型の講義で学生に大人気の大学講師でもある。いくつもの顔を持つ小田マサノリさんに、原点ともいうべきフィールドワークについて語っていただきました。(写真は、特に記した以外は小田マサノリ氏撮影)て、作品のタイトルを「Give Peace a Chance」に変えたのです。 それからしばらくして、アフガンへの空爆が始まろうとしていたとき、オノ・ヨーコが「ニューヨーク・タイムズ」紙にジョン・レノンの「イマジン」の歌詞の一部を載せた全面広告を出しました。それは「Imagine all the people living life in peace(想像してごらん、すべての人々が平和のうちに暮していると)」という英語の歌詞でした。それをみたとき、22Field+ 2011 07 no.62001年、オノ・ヨーコ「Imagine all the people living life in peace」をリミックスしたアラビア語対訳つきポスター。「横浜トリエンナーレ2001」に出品したインスタレーション「Give Piece aChance」の全景。廃物の山が9.11事件以後から別の意味を持ちはじめた。2002年9月11日「去年トリエンナーレで」展最終日、展示会場に掲示された「現代美術家廃業宣言」( 2002年、横浜)。インタビュー太鼓を叩いて練り歩けシャーマンの弟子、アクティヴィスト人類学者になる小田マサノリ おだ まさのり / AA研特任研究員インタビュア--椎野若菜構成--星 泉文化人類学者になり損ねた元現代美術家――小田さんはいろいろなことをなさっておられますが、ご専門は何でしょう?【小田】僕は文化人類学調査のために1989年にはじめてアフリカに行き、96年まで日本とケニアを行ったり来たりしながらシャーマニズムの研究をやっていたのですが、日本に帰った後、大学院で文化人類学の研究を続けながら研究以外のことをやりはじめたんです。クラブでDJをやったり、グラフィックデザインをやったり、アートをやったり、つまりは表現活動を始めたんです。もともとは研究のためだったのですが、いつのまにか「現代美術家」とよばれるようになりました。しかし2002年に「現代美術家を廃業する」という宣言をしたので、「文化人類学者になり損ねた元現代美術家」というのが現在の肩書きです。――なぜ、現代美術家廃業宣言をなさったのですか?【小田】2001年に「横浜トリエンナーレ」という現代美術の国際展に出展していたとき、9.11の事件が起こりました。僕は「現代美術」というのは「同時代の芸術」だと思っています。つまり、いまこの時代にリアルタイムで起きている世界のさまざまな出来事や事件に対する自分の考えや思いを、美術というメディアを使って表現するのが現代美術だと思っています。 だから9.11の事件が起きたとき、現代美術家として、何かしなければならないと思いました。僕の作品には、オノ・ヨーコがジョン・レノンと一緒に発表した「Give Peace a Chance=平和にチャンスを」(当時の邦題は「平和を我等に」)」という曲にちなんで、「Give Piece a Chance(ガラクタにチャンスを)」というタイトルをつけていました。廃棄されたり捨てられたガラクタにもう一度チャンスを与えようという意味です。 でも9.11の事件が起きたために、「平和」ということが、にわかにアクチュアリティを持ってしまいました。なので、まず自分にやれることとし

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