フィールドプラス no.6
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NGOが支援する民間治療師ネットワークの会議での一場面。この日の議題は麻痺患者のケアについて(2006年)。薬草を採りに森へ入る。バンコクで開催された「全国生薬博覧会」で、学生たちに治療技術を説明し、実演する治療師(2006年)。治療師が作った薬を手に取る来場者たち。チェンマイ市近郊の寺院で開催された「土着の知恵」を紹介するイベントで(2006年)。ニティ全体で取り組むべき問題として捉え、HIV感染者と住民組織との協力・連携がはかられたが、治療師たちはそのなかの一部として組織され、感染者の相談役や健康アドヴァイザーとしての役割を期待された。このことは、それまで個人で活動していた治療師たちのグループ化、ネットワーク化を促し、彼らに互いの知識や経験を交換する機会、さらには地域社会を越えて活躍する機会を提供した。 滞在先の治療師もまた、身近に現れた感染者をケアするなかで治療師としての実践を本格化させ、1995年から治療師グループの活動に参加してきた。エイズという未知の病気を前に、行き場をなくしたHIV感染者をなんとかしなくてはと、試行錯誤で治療を始めた彼の評判はやがて広まり、多くの感染者が薬を求め、また実際に家に訪ねてきた。 当時、治療師のもとには毎日通ってきて薬作りを手伝う感染者がいたという。デーン(仮名)という名のその男性は、いつも冗談を言ってまわりの人を笑わせているような明るい人だった。どんな病気なのか、どんな薬を与えたらよいのかわからない状況で、治療師は祖父や他の先達から受け継いだ古いテキストに記された薬方をもとに様々な薬を作り、それをデーンが飲み、2人は一緒になって試行錯誤しながら治療法を模索していった。過去のクライアント だが、残念ながらデーンは亡くなってしまった。妻に先立たれ、その後、食堂で働く娘に恋をしたが交際を断られ、ヤケになって荒れた生活を送るうちに症状が悪化したのだという。エイズに限ったことではないが、治療師が世話をしたクライアントのなかにはすでに亡くなっている人も少なからずいる。近代医療での治癒が困難な場合に民間医療を利用する人が多いため、連絡してきたときには症状がかなり悪くなっていることがあるからである。隣の県に住むコーイ(仮名)という女性の娘もその1人だった。 わたしがコーイに出会ったのは治療師の家に住み始めてから半年ほど経った頃だった。治療師が1ヶ月間、出家をするというので、出家生活で必要な道具を買い揃え、得度式を執り行う僧侶たちへの布施の品物や現金を準備しているとき、彼女は夫と共にやってきた。タイでは男性の一時出家は社会的に認知された慣習であり、当人が修行をし、功徳を積む機会であることはもとより、育ててくれた両親へ功徳を送り恩返しをするという意味においても大変喜ばしいことだと考えられている。 そこで、コーイと夫は治療師が出家することを知り、隣の県からわざわざ車で4時間かけてやってきたのだ。整然とした身なりで話し方にも品がある2人の訪問に何事かと思って遠巻きに眺めていると、彼らは30分ほど治療師と世間話をし、3,000バーツ(当時、日本円で約9,000円)を渡して帰っていった。この金額は村の女性が1ヶ月間、縫製の内職をして得る賃金とほぼ同額で、ご祝儀としては大金である。彼らと治療師とは一体どんな関係なのか。 コーイと治療師の出会いはそれよりも5年前にさかのぼる。当時、彼女の娘がHIVに感染し、治療師の世話になった。娘は親元を離れてバンコクで大学に通っていたが、はじめ親には感染したことを言わず、言った頃には目もよく見えなくなっていたという。両親は受け入れられず、あちこちの医者に見せに行き、保健省でタイ式医療に関わる仕事をしている人から治療師のことを紹介された。 治療師は自宅へ訪ねてきたコーイから話を聞いた後、彼女の家へ行って2週間ほど泊り込みで娘を看病した。最初に娘を見たとき、コーイには「あまり期待してはいけないよ」と言ったという。もう末期で意識もはっきりせず、あと1ヶ月のところまできていた。看病しているあいだ、娘はしばしば痛みを訴えて呼ぶので、そのたびにマッサージをしたり薬を作って飲ませたりして、寝る暇がなかったという。おさまったと思ったらすぐにまた痛くなる。結局、最後には病院へ入院した。治療師は「もう限界だから家に帰らせくれ」と言ったが、あと2晩だけいてほしいと頼まれ、家族のそばに留まった。そして2晩目に亡くなった。 娘は亡くなってしまったが、今も治療師とコーイの家族とのつきあいは続いている。そして、出家する前に訪ねてきたときのように、彼らは何かあるたびに治療師を援助している。コーイにとって治療師は、もう自分たちではどうしたらよいかわからない状況で、親身になって最後まで娘を看病してくれた恩人なのだ。命によって命を学ぶ 「どうやって治療法をよりよいものに発展させるのか」というわたしの問いに対して、治療師は「命によって命を学ぶんだ、簡単なことではないよ」という。そして、「患者は先生である」と。わたしは最初、「命によって命を学ぶ」の意味を「命を相手にするのだからこちらも命がけでやる」ということだと思っていた。しかし、調査を始めてから時間が経ち、過去のクライアントとのエピソードについて聞いていくうちに、「患者の命によって命を学んでいる」という意味だということを理解した。治療経験の末にたどりついた独自の治療法や薬方は、これまでに関わった多くのクライアントの命から教えてもらったことなのである。そうした命の重みを胸に、病気に苦しむ人を助けようと、今日も治療師は薬を作る。21Field+ 2011 07 no.6

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