フィールドプラス no.5
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文字が「郷に従う」まで 故郷インドから東への旅に出た文字が最も早期に出会ったと考えられる民族は、ピュー、チャム(以上西暦4世紀頃)、マレー、クメール(以上5世紀頃)、モン(6世紀頃)である。文字の有用性に気付いた彼らは、サンスクリット語の表記という本来の用途に用い続ける一方で、自らの言語を書きあらわすためにこのインド起源の文字を流用するようになる。最古の現地語碑文の年代は、ピュー語で4世紀頃、モン語で6世紀頃、マレー語とクメール語で7世紀頃、チャム語で9世紀頃と考えられる。 現地語を表記しようとする最初の段階は、少なからず試行錯誤を伴うものであったろ視されている。島嶼部・大陸部を含め東南アジアへの伝播のプロセスについては、よくわからないところが多いが、おそらく古くから開拓されていた「海のシルクロード」(別名、セラミック・ロード)と重なるだろう。 東南アジア各地域における初期のインド系文字碑文は、ほとんどがサンスクリット語碑文である。現地の王が自身の権威付けのために建てたものが多い。その時期はサンスクリット語が公式の書記言語として確立したインドのグプタ時代に重なる。このことは、商人のみではないインドからの渡来人や帰化人の存在を想起させる。タイ東北部、ピマーイ遺跡での碑文撮影の一コマ。日光と影によって明暗が生じるのを避けるため、本来は光を当てるためのレフ板を、光を遮るために用いている。う。その段階をクリアして表記の習慣が定着するにつれ、これら民族の主要な書記言語もサンスクリット語から現地語へと移行していく。マレー語は10世紀頃に、チャム語とクメール語は11世紀頃に、主要な書記言語の地位を獲得したと思われる。 ただし、文字が現地語にすんなり適応したかというと、それはまた別の問題である。とりわけモン語とクメール語は、サンスクリット語にない母音の区別を多く有するため、ちょうどカタカナで英語を書くように、母音の区別を正確に書き分けることができない状態が長く続いた。同一の母音表記が複数種の母音を表すことも、逆に同一の母音が複数種の母音表記で書かれることもあったのである。やがて彼らは、既存の記号の新しい組み合わせを考案し、また新しい記号を加えてこの問題を解決するのだが、適切な母音表記のしくみが確立したのは、モン文字では15世紀頃、クメール文字ではそれよりもずっと後のことであった。 マレー世界で8世紀頃に成立したカウィ文字からは、ジャワ文字やバリ文字などが生まミャンマー第2の都市マンダレーの旧王宮碑文庫にて。600枚を超える碑文の位置関係や保存状態を記録することも、研究上欠かせない作業である。れた。ビルマ人は12世紀頃モン人から、タイ中部のタイ人は13〜14世紀頃にクメール人から、それぞれ文字を受容して自らの文字を作り出した。さらにモン文字、ビルマ文字は周辺のシャン人やカレン人に受容され、彼らの固有の文字を作り出すもととなった。一方、タイ文字は現在のタイ北部およびラオスにもひろがって現在のラオ文字のもととなった。またこれとモン文字との混淆によって15世紀頃生じたタム文字は、タイ北部、ラオスのみならずミャンマーのシャン州東部や雲南に分布するタイ系諸民族によって用いられることとなった。ここに挙げた文字は、ピュー文字を除くと、使用状況に差こそあれ、いずれも現在用いられている文字である。 後から生まれた文字も、既存の要素(母音記号および子音字)を他の機能に転用したり、要素の新しい組み合わせや新しい要素を導入したりして、文字を言語に適応させていった。また、必要のない要素を落とした文字もある。「郷に入った」文字が真に「郷に従う」までには、様々な紆余曲折があったのである。Field+ 2011 01 no.57

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