2 旅に出たインド系文字東南アジアのインド系文字分布図。赤字は、最も早期にインド系文字を受容した民族が作り出した文字。ピュー文字とカウィ文字は現在は使用されていない。西暦1112年に作られたバガンのラージャクマール碑文。石柱の4面にパーリ語(プラークリット語の一種)・モン語・ビルマ語(以上ビルマ文字)およびピュー語(未解明、ピュー文字)の4言語で記されたもので、「ビルマのロゼッタ・ストーン」とも呼ばれる。ビルマ語面は年代の記された最古のビルマ語テキストである。写真はパーリ語面。史は、便宜的に古期(前6世紀まで)、中期(前6世紀〜11世紀)、新期(11世紀以降)に分けられる。サンスクリット語は古期を代表する言語であり、プラークリット語は中期を代表する言語である。 サンスクリット語とプラークリット語の最大の違いは、音韻変化による音の簡略化である。たとえば、サンスクリット語に豊富に含まれる語中の子音連続 –C₁C₂– (Cは子音)は、プラークリット語では音の同化作用により単純化され、ほとんどが –C₂C₂– となる。たとえば、サンスクリット語で「7」を意味するsapta-がプラークリット語ではsatta-となるように。また語末の子音はほとんど消失してしまう。この結果、プラークリット語の姿は、日本語のように、語の末尾が母音で終わる開音節中心の言語に大きく変貌する。アショーカ王碑文のブラーフミー文字はこのプラークリット語を表記するための表記体系であった。ちなみに、同化の結果生じた -tta-のような同じ子音の連続は、アショーカ王碑文では単に-ta-と書かれ区別していない。ともかく、時代的に見て、アショーカ王碑文の言語は同時代のインド語派の言語に近いものと考えていい。書記言語としてのサンスクリット語 古代インドでは、伝統的な学芸の媒体としての音声言語であり、神聖な言語とされてきたサンスクリット語は決して文字化されることなく、精密かつ正確に継承されていた。文字化しないほうが正統的だとする時代が長らく続いていたのである。ところがアショーカ王の時代から約600年後、この状況が変化する。芸術・建築・科学・文学の諸分野で隆盛を極め、インド史上「黄金時代」を築いたとされるグプタ朝(4世紀前半〜6世紀中頃)の時代、サンスクリット語は音声言語としても書記言語としてもこの王朝の公用言語となり、サンスクリット文学が次々と書かれるようになる。傑作とされているサンスクリット文学のほとんどはこの時代のものである。つまり言語の歴史から見れば、古期インド語派のサンスクリット語が、はるか後世、約千年の後、書記言語の表舞台に登場したことになる。 初期のサンスクリット語碑文は、グプタ時代の前触れのように、1、2世紀頃から出現する。この頃の碑文を見ると、当初単純な線で構成されていたブラーフミー文字に装飾の要素が加わり、インド各地で独自の分化が始まりかけていたことがわかる。そして徐々に、北インドと南インドでは文字の形の特徴がはっきりとした異なりを見せるようになる。サンスクリット語の豊富な子音連続を表記するための結合文字が揃ってくるのもこの頃である。サンスクリット語とともに東南アジアへ さて、こうしてインド各地にひろがりつつあった文字が、故郷を離れ、海をわたって旅に出ることになる。 インドから東南アジアにわたった文字は、時代を経て変化した南インドの文字という見方が定説である。特に、いわゆるパッラヴァ・グランタ文字が、字形の類似から有力古典語サンスクリット語を乗せて、東南アジアにやってきた文字は系統の異なる様々な言語に出会い、それを書きあらわす役目を新たに担う。「郷に入った」文字が「郷に従う」までには長い時間を要した。アショーカ王碑文の言語 アショーカ王碑文は何語で書かれていたのだろうか? ブラーフミー文字を最初に解読したプリンセプ自身が最初はこの言語をサンスクリット語と思っていたほど、古代インド文化とサンスクリット語のつながりは当時常識的であった。しかし予想に反して、解読された言語は同じインド語派であってもサンスクリット語ではなくプラークリット語であった。 インド・ヨーロッパ語族インド語派の歴Field+ 2011 01 no.56ピューシャンビルマタムカレンモンラオタイチャムクメールカウィジャワバリ町田和彦 澤田英夫まちだ かずひこ / AA研 さわだ ひでお / AA研
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