フィールドプラス no.5
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古代エジプト文明の文字といえば聖刻文字(ヒエログリフ)が有名である。しかしながら、古代エジプトの書記達は聖刻文字を書いていなかったのではないか。そのことを意識するようになったとき、古代エジプト文明における書字文化の在り方がようやく見えてくる。Field+ 2011 01 no.5エジプト学者は原資料を読んでいるのか? 古代エジプトにおいて物語文学が成立したのは中王国時代(2080-1759 BC)である。その時代の文学作品のテキスト集としてはA・M・ブラックマンが1932年に刊行したもの(A.M. Blackman, Middle-Egyptian Stories, Bruxelles, 1932)が有名である。古い著作であるが現在でも「資料」として研究者に利用されており、私自身もかつてはブラックマンのテキストを利用していた。しかしながら、5年ほど前からこれに疑問を抱くようになった。というのも、原資料は神官文字(ヒエラティック)と呼ばれる筆記体で書かれているのに、ブラックマンのテキストは聖刻文字に直されたものであるからだ(図1)。 聖刻文字と神官文字は共に古代エジプトで使用されていた文字である。両者とも表音文字としての用法が中心であり、表語文字(表意文字)としての用法は少ない。これらの文字資料は主にエジプト学で研究されており、エジプト学においては「神官文字は聖刻文字の筆記体であるので、神官文字の資料を聖刻文字に書き換えたテキストも資料としての有効性を十分に保持している」と考える者が多い。だが、このような考え方は果たして妥当なのであろうか。ブラックマンのテキストは神官文字を聖刻文字に改めたものであり、言語学の立場からいえば、それは「翻字」(原資料の文字を他の文字に書き換えたもの)の一種に位置づけられる。神官文字と聖刻文字の関係に対する2つの捉え方 従来よりエジプト学では神官文字は聖刻文字の筆記体だと考えられてきた(直線的発展説)。それに対してH・ゲディケ(Hans Goedicke)は従来の説に異を唱え、聖刻文字と神官文字が並行して発展したとの説を提唱した(並行的発展説)。並行的発展説は1988年に提唱されたものであるが、エジプト学においてそれが十分に受け入れられているとは 私の研究テーマは古代エジプトの書字文化の解明である。このように表現すると壮大なテーマであるが、今後の10年間はパピルス写本に記された文字の字形研究を行うことにしている。実を言うと、私の元々の研究テーマは古代エジプト語の文法記述であったのだが、現在はそれを保留し、あえて文字の研究に専念している。では、なぜ文字の研究に取り組まなければならなかったのか。そのことから話を始めよう。言い難い。そこで次にゲディケの見解を確認しておきたい。 図2はゲディケの主張を踏まえて筆者が作成した直線的発展説のモデルである。この説において、神官文字と聖刻文字は書体の異なる同一の文字素(文字種)として捉えられており、神官文字の書体は聖刻文字を崩したものと見なされる。 それに対して並行的発展説は図3のようにモデル化される。エジプト文明の萌芽期には聖刻文字でも神官文字でもない「初期エジプト文字」が書かれていた。これはまだ模索期の文字であり、字形のプロポーションが確立されていないものであった。その後、書字行為が頻繁になるにつれて、彫刻によって生み出される聖刻文字と筆書きによって示される神官文字とに分化し、両者は並行して別々に体系化されていった。それゆえ神官文字は聖刻文字の崩し字ではなく、それ自体で独立した文字体系として存在していた。 私自身は、ゲディケが提唱した並行的発展説が間違ったものではないと判断しているが、そのように判断する根拠として3つのことを指摘したい。1つは書記学校の生徒が残したテキストである。新王国時代(1539-1069 BC)の書記生が最初に習う文字は神官文字であったのであり、彼らが記した筆記板やオストラカ(土器片・石片)が多数発見されている。 2つ目はエジプト学者が「崩し字聖刻文字」と呼ぶ文字の存在である。崩し字聖刻文字は「死者の書」と呼ばれる文書を記す際におもに用いられる(図4)。石に彫られた聖刻文字と比べて字形が崩れているとの印象を我々は感じがちであるが、このような印象は聖刻文字の字形を基準としたものである。書記が日常的に扱っていた文字が神官文字であることを踏まえるならば、「崩し字聖刻文字」と呼ばれるものは、神官文字に熟達している書記が筆で書いた聖刻文字、つまり「筆書き聖刻文字」として捉えられるであろう。図5は「私」を意味する単語を聖刻文字、筆書き聖刻文字、神官文字で記したものである。それぞれの表記において中段にある文字は「取っ手の付いた籠」をかたどった文字素である。良く見ると、聖刻文字では向かって左側に取っ手が付いているが、神官文字と筆書き聖刻文字では右側に取っ手が付いている。筆書き聖刻文字が聖刻文字の崩し字であるならば、取っ手は左側に付いていなければならない。24フロンティア古代エジプトの神官文字 ──書字文化の解明に向けて永井正勝 ながい まさかつ / 筑波大学人文社会科学研究科準研究員

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