フィールドプラス no.5
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ヒントを掴み、そして文書に立ち戻る そんな僕の興味関心のベクトルが急旋回したのは、ラーシドの車に乗っていたある日の夕暮れ時だ。スール市内から4、5キロ離れた場所に古い要塞がある。そこに通り掛かったとき、子供のころ、ここでよく遊んだのだと彼はふと話し出した。町から歩いてきたのかと尋ねると、要塞から程近いバラド・アル=スールにも家があったのだと言う。彼によれば、6月から8月の一番暑くなる時期には、スールを離れて、ナツメヤシ林に囲まれ、水も豊富にあるその村落で一家そろって過ごしていたのだという。「スーリーのはじめに爺さんが帰って来るだろ、それでクースが終わってまた出かけちゃうまでここでみんなで過ごすんだよ」、「船が帰って来てから、また出ていくまでのあいだは港には船がたくさん停まっているんだけど、人は留守番を除いてみんなバラド・アル=スールで過ごすんだ」。スーリーとは5月から7月まで吹く南西風のことであり、クースとは8月から9月までのやはり南西風だ。クースの時期が終わると、アズヤブという北東風が吹き始める。つまり、の父や祖父に大きく傾いていた。つまり、ナーホダーがいつ、どのような航海を行っていたのか、何を運んでいたのか、そうしたことがこのときの野帳には色々と書き込まれている。スーリーは彼にとっては祖父を運んでくる風で、クースが止むことは、祖父とのしばしの別れを告げる合図だった。再開と別れのそのあいだ、祖父も含めて彼の家族はバラド・アル=スールで過ごし、ナツメヤシを収穫したりしながら過ごす。別の機会にアブド・アッラーにこの話をすると、彼のところも同じだったという。このときに僕はナーホダーの家族もまた、モンスーンによって定められる航海のリズムのなかを生きていることに強く気付かされた。 僕は帰国後、欧米やインド、ペルシア湾岸諸国などで集めた文書を改めて読み直してみた。すると、いままで気にも留めなかった記述に呼び留められるようになっていった。たとえば、ナツメヤシの収穫だけではなく、ペルシア湾の基幹産業であった真珠採取もスーリーからクースの時期に最盛期を迎えること、オマーン湾やペルシア湾の港町の多くの後背風とともに季節はめぐる こんにちの石油で潤う湾岸諸国では、航海活動もナツメヤシや真珠の採取も基幹産業ではない。バラド・アル=スールにはいまでもナツメヤシ林が拡がるが、そこではインド系の労働者たちが働いていて、スプリ地に緑豊かな避暑地があり、そこと港町とのあいだの移動、避暑地でのナツメヤシなどの収穫作業と航海活動とが時期的に連動していること。こうした事実まで視野にいれると、船乗りたちの活動だけではなく、その家族や、船乗りたちが運ぶ産物の生産者たちの活動もまた、モンスーンのリズムに律されていることがわかる。こうしたモンスーンのリズムにあわせて行われるさまざまな人間活動、しかもそれがお互いにギアがかみ合うように連動しあっている総体をインド洋西海域世界として捉えられないか、これが現在の僕の課題だ。ンクラーが定期的な水やりをしている。オマーンに限らず、どこでも建物に入ると凍えるくらい冷房が効いている。もはやスーリーからクースのあいだに避暑をする必要もなくなった。事実、ラーシドやアブド・アッラーによれば、1980年代には、家にクーラーがつけられるようになり、バラド・アル=スールで避暑をするようなことはなくなっていったという。 しかし彼らは6月から9月くらいまでの一番暑い時期――スーリーからクースのあいだ――に、暑いスールを離れて雨期を迎えるムンバイやバンコクによく行くと言う。彼らの行動のリズム自体は、子供のころと変わっていないと言えるのかもしれない。つい先日もムンバイにいたアブド・アッラーから電話をもらった。次に彼らに会うのはいつ、どこになるのだろうか。風とともにめぐる彼らの生活のリズムに僕がうまく乗れたときが再開の日になるのだろう。スールの町並み(海から)。スーク(市場)に並ぶナツメヤシの実。バラド・アル=スールのナツメヤシ林。Field+ 2011 01 no.521

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