フィールドプラス no.5
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人々の中で暮らし、ひたすら日常を共にする。何も目的がないように見えるが、人類学にとっては重要なフィールドワークの方法だ。そうして得られた経験や情報が、ある時何かを考える上で大事なデータとなることがあるからだ。採るべき何か44 私は2002年から、ジャワ島中部のルンバンという小さな港町でフィールドワークを続けている。インドネシアのある程度の規模の町には、「オラン・ティオンホア」と呼ばれる人たちが暮らしている。「オラン」は「人」、「ティオンホア」は「中華」の福建語読みだから、つまり「華人」だ。ルンバン一帯は、中国南岸から渡って来た華人が古くから定着したことで知られ、今も大通り沿いに400世帯ほどが集住している。私が調査しているのは、このジャワの田舎町で、人々が日々どのように「華人らしさ」を捉え、また感じているかということだ。ただ調査といっても、アンケートのように予め採るべきデータを明確に想定し、項目に沿って調べているわけではない。求めている何か44は、人々の何気ない会話や行動をじっくりと観察し、また時にはこちらから働きかけることで、ふとした弾みに得られるような何か44である。だから私のフィールドワークは何よりも、常に人々に関心を持ちつつ共に生活することそのものを重視している。ジャワの華人 インドネシアの華人は、全人口の2~3%を占めると言われている。ただひと口に「華人」といっても、出身地や移住年代、世代、それに現居住地などによってアイデンティティは多様だ。特にジャワに暮らす華人の多くは、何世紀も前に祖先がこの地に移り住み、現地女性と混血を繰り返す中で世代を重ねてきた子孫たちだ。だから、衣食住の様式の大部分、時には外見すらもが、現地の人と区別がつかぬほど混じり合っている。 そんなジャワの華人たちの間でも、20世紀初頭には大陸で沸き起こった中華ナショナリズムと呼応し、より「純粋な華人」になろうとする動きが見られた。たとえば、それまで日々のコミュニケーションで彼らが用いていたのは、地元の人が話すジャワ語かマレー語(後のインドネシア語)、それに親族名称などにわずかばかり残る福建語起源の単語であった。だが、「自分たち本来の文化」を見出そうとする機運が高まる中、「ナショナルな言語」と見なされた中国語(北京語)による子弟教育が盛んに行われるようになったのだ。 1966年以降、こうした動きはインドネシア政府により厳しく抑え込まれるようになる。華人は現地社会に完全に溶け込むべきとする厳しい政策が採られたのだ。やがて彼らの多くは再び、言語、文化、そして名前の面でも、およそ「華人らしく」なくなってしまった。中国語学習ブーム 1998年にこの国は大きな政治の変化を経験した。30年以上続いた独裁的体制が崩壊し、「改革」や「民主化」が叫ばれるようになったのだ。華人に対する抑圧的な扱いも見直され、かなり自由に「華人らしさ」を表明できるようになった。公共の場での漢字の使用も解禁され、寺廟の祭は賑やかさを増している。 このように全国的に華人を取り巻く環境が大きく変化する中で、人々の「華人らしさ」に対する意識の変化に関心を持って私は調査をしていたが、2006年のこと、そのルンバンの町でひとつの注目すべき現象が起こった。30代後半から50代の華人女性30名あまりが、こぞって中国語(北京語)を学び始めたのだ。 繰り返しになるが、ジャワの地で世代を重ねてきた彼女らは中国語を話せないし、日常必要とす「華人の文化」が解禁され、寺廟の祭も年々盛大になっている。中国語教室は少人数で気さくな雰囲気。最後列は唯一の男性受講者。Field+ 2011 01 no.518津田浩司 つだ こうじ/AA研日常の場でデータを採る採る 3

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