フィールドプラス no.5
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マダガスカルへ ところで、遠く離れたマダガスカルにマレー諸語と類縁の言語を話す人々が暮らしているというのは考えてみれば不思議であって、いくつかの仮説が出されているものの、詳しいことはわかっていない。 コタ・カプール碑文の末尾には、いまだ従わないジャワ島に向けて征服の軍隊を送る日に、という日付(686年2月28日)が書かれている。新たに服従させた人々を掌握するための最良の手段は別の敵を征服することで彼らに戦利品を与えることであり、このシュリーヴィジャヤ碑文言語Bを話していた人々は、この時、上記クドゥカン・ブキット碑文の「2万」といった数でジャワ島への遠征軍に加わったのではないだろうか。当時のジャ述べられていることについて、フランスの言語学者ダメの1968年の論文の試訳に基づいて検討してみると、中心的内容は古マレー語部分と同じで、王に従えば富などが得られるが、従わない場合には恐ろしい呪いがある、ということである。つまり、上述したクドゥカン・ブキット碑文の内容から推測すると、マレー半島など別の地方からやって来て、スマトラ島を支配下においたばかりのシュリーヴィジャヤの王が地方の領主たちに服属を要求するために彼ら自身の言葉で誓いを行なわせたのである。さらに、その服従の誓いの呪術的永続性を増すために、文字という新規の技術的手段に訴えているものであろう。ベトナム南部、ファンラン郊外の丘に建つポークロンガライ寺院主祠堂の正面。シヴァ神を祀る寺院で、入口の上にも踊るシヴァ神の浮彫がある。入口両脇の石柱にはそれぞれ3面にチャム文字で、13世紀のジャヤシンハヴァルマン3世王の寄進を記したチャム語の碑文が刻まれている。マダガスカル島の帆走アウトリガー・カヌー。転覆防止のためのウキが片側にしかないのは、よほど太い支柱で取り付けないと、大波などで片側が浮き上がったときにそちら側の支柱が折れてしまうからだ。(撮影:深澤秀夫)ワ島の中心はボロブドゥールなどのある南岸方面であったと考えられるので、遠征艦隊(20人乗りのアウトリガー・カヌー1000隻?)はスマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡を抜けて、南に回ったことであろう。 さてそこで嵐に遭遇して陸地から離れてしまったとすると、運を天に任せて、風と海流の力を最大限に利用して前進することが生き延びるための最良の手段である。この地帯においては一年のどの季節においても東から西に、風も海流も流れており、20日程度でマダガスカルに到着するのは比較的容易であったはずである。たとえば艦隊の一部、千名からなる集団がまとまってマダガスカルまでたどり着くようなこともありえないことではない。 このような仮説は、昔ならば単なる夢物語で終わることだが、近年では遺伝子的研究によって証明することが可能であろう。戦隊のメンバーは男だけだったと仮定できるので、遺伝子分析の結果もしもY染色体に特異な分布が見られれば、男ばかりの集団が移住した可能性が高くなるからである。マダガスカルへの移住についての可能性を探る最初の遺伝子的研究は2005年に発表されたものがあるが、そこではY染色体の特徴的な分布は見られないとのことであった。しかし、2009年に発表されたピサ大学のトファネッリらの研究によると、マダガスカルへのオーストロネシア系の人々の移住は、最低2波以上でなされたとされる。全体の大枠としての数値シミュレーションの結論は、200~1000人によって1000年から3000年前に移住がなされたということである。その中で最初の移住は2000~3000年前に、現在のモルッカ諸島住民との類縁性の高い人々(男女同数)によってなされ、ついで、西暦紀元以降に男性を中心とした別の移住の一波がマレー半島付近住民と近い人々によってなされた可能性が充分ある、と推定している。 近年では遺伝子的研究における倫理規定が厳しいため、なかなかサンプリングできる人数を増やすことができず、上記の研究の確度は充分なものではないが、追加的に研究がなされれば、私の仮説を明確に証明してくれるようになるのではないかと期待している。 なぜなら、マダガスカルの文化には奇妙な点がいくつかある。たとえば稲作儀礼がほとんど欠落していることとか、稲と米をインドネシア諸語のように別々の言葉で表さず一つの言葉しか持たない上に、その言葉の起源がオーストロネシア語族において「米」「飯」を表す言葉に由来していることなどである。こうしたマダガスカルの文化伝統におけるある種の欠損は、儀礼的伝統を充分に習得していない若い男性戦士の集団の移住のみによって稲作を含む文化の層が伝えられたとすれば理解できるのである。 石に刻まれた碑文が直接に語ることは限られているかもしれないが、遺伝子学など幅広い学問の声にも耳を傾ければ、隠れた声も聞こえてくるのである。コタ・カプール碑文(インドネシア国立博物館所蔵)シュリーヴィジャヤ碑文言語Bの書かれた面。(本来は右側を下として建てられていた)(写真撮影:Martijn、作品タイトル:Prasasti Kota Kapur、出典:http://en.wikipedia.org/wiki/File:Prasasti_Kota_Kapur.jpgよりCreative Commons license)Field+ 2011 01 no.51111

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