フィールドプラス no.5
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4 碑文の声を聞くインドネシアのジャワ島、プランバナン寺院群の中心にあるロロ・ジョングラン寺院。9世紀に建てられたシヴァを主神とするヒンドゥー教の寺院。ボロブドゥールに見られるように大乗仏教が盛んだった時代の後にジャワ島ではしばらくヒンドゥー教が中心となる時代が続く。シュリーヴィジャヤ碑文 7世紀になると海上交易で大きな利益をあげる国家が現れる。マレー人によるシュリーヴィジャヤ王国である。シュリーヴィジャヤの王たちはサンスクリットではなく自分たちの言語(いわゆる古マレー語)で碑文を刻ませた。文字は従来からそれほど変わらない、いわゆるパッラヴァ・グランタ文字で書かれている。全部で7つほどの碑文が知られているが、年代の書かれているもののうち、もっとも古いものが、スマトラ島のパレンバンの町の南西にある丘のふもとで発見されたクドゥカン・ブキット碑文である。そこでは、682年4月から王が遠征に発ち、2万人以上の軍隊を伴う船での進軍の結果、6月にある場所に町を興した、そしてシュリーヴィジャヤの繁栄[文末不鮮明]、と語られている。これは、おそらく、それまでマレー半島にあったシュリーヴィジャヤの国が、スマトラ島パレンバン周辺を征服し、首都をパレンバンに移したことを述べているものであろう。 さて、その他のシュリーヴィジャヤ碑文のうち4つに、その他の部分と同じ文字であるが、謎の言語(シュリーヴィジャヤ碑文言語Bと呼ばれている)で書かれた短い文章が冒頭におかれている。当初は、判読不能な形で書かれた呪文などと解釈されたが、s音がまっム河流域のクタイから発見されていることなど、インド文化の影響の広がりが想像されるよりも広範囲に及んでいたことがわかる。たく存在しない代わりにh音が多数出てくることなどから、マレー語と同じオーストロネシア語族の言語で、類似した音韻変化法則に従って変化した言語として解釈が可能である、という研究が言語学者によって進められた。そして、類縁性の観点から、もっとも近い言語はマダガスカルの言語(しばしばマルガシュ語と呼ばれる)であることが、広く認められるようになった。 またマダガスカルの言語の研究から始めてオーストロネシア諸語との比較を行なったノルウェーの学者ダールは、もっとも類似しているのはカリマンタン島南部のマニャーン語であるとしている。彼の説では、そこに、この碑文についての知見を加えて、カリマンタン島から、バンカ島(スマトラ島東南部の北側に隣接する小島でシュリーヴィジャヤ碑文言語Bを含む碑文の一つコタ・カプール碑文の発見地)への移住、そこからマダガスカル島への移住というシナリオを描いている。 しかしながら、シュリーヴィジャヤ碑文言語Bを含む4つの碑文は、バンカ島の他に、首都であったろうパレンバン、スマトラ島の東南の端にあたるパラス・パセマ、スマトラ島中央部に近いカラン・ブラヒという離れた地点からも見つかっている。こうしてみると、カリマンタン島からの移住などを想定するまでもなく、当時のスマトラ島沿海地帯の住民の言葉であったと解釈する方が自然であると思われる。 さらに、シュリーヴィジャヤ碑文言語Bでインド系文字の伝来を物語る証人である碑文たち。未解読言語の記された碑文が密やかに語る謎を聞き取るとマダガスカルへの道が見えてくる?インドから東南アジアへ 歴史的に見ると、東南アジアへのインド文化の伝来は、紀元2世紀ころに始まったようである。それは、ローマからインドへの季節風交易の延長として、南インドからマレー半島のクラ地峡に上陸し、幅45キロほどの陸地を横断してタイのバンドン湾から再度船出して対岸のベトナム南部のオケオ地域などとの交易として始まったと推測される。オケオから出土したローマ貨幣などがそうした交易を物語っている。 その後4~5世紀にかけては、インドと東南アジアとの交流が大きく進展し、各地にインド文化の影響を受けたことを物語る碑文などが見られるようになる。そうした碑文は当時の南インドでサンスクリット語を記すために用いられていたいわゆるパッラヴァ・グランタ文字の一種で書かれていた。言語は大部分がサンスクリット語である。ベトナム南部のニャチャン近くで発見されたヴォー・カイン碑文は、字体的特徴から3世紀あるいは4世紀のものと推定されている。また、5世紀前半と推定されるムーラヴァルマン王碑文がカリマンタン(ボルネオ)島の東海岸のマハカField+ 2011 01 no.5マダガスカル インドクラ地峡マレー半島マラッカ海峡スマトラカラン・ブラヒバンカ島パレンバンパラス・パセマジャワボロブドゥールヴォー・カインオケオバンドン湾カリマンタン(ボルネオ)クタイ10高島 淳たかしま じゅん / AA研 

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