フィールドプラス no.5
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3 インド系文字の現地化と祖先の記憶 8図2 クメール文字の5×53段目(反り舌の「タ」「ナ」)の字のうち、A、C、E列はクメール語独自の子音を書き表すために転用され、B、D列は原則としてサンスクリット語からの借用語を書き表すために用いられる(網掛けを施した字)。後者は現地音化、つまりクメール語の音に同化したために、対応する4段目(「タ」「ナ」)の字と同様に読まれるようになった。(図では同じ音で読まれる字を、囲い線でひとまとめにしてある。) 現在のインド系諸文字は、驚くべき多様性を示している。それは、前節で述べたような現地語への適応の試み、文字体系の成立後に言語音が変化したことで生じた音と文字の間のずれを解消するための修正、書写材料や文字使用の習慣の移り変わりに伴う字形の変化、自分たちのアイデンティティを主張するための特徴ある書体の創出など、さまざまな要因が組み合わさった結果である。 しかし、もとはブラーフミー文字という共通の先祖から分かれ出たこれらの文字は、当然ながら多くの共通点を持っている。インド系諸文字を各地の郷土料理に例えるなら、味のベース(共通性)に加えられたスパイス(独自性)のさじ加減が、それぞれの料理に絶妙な味わいを与えていると言えるだろう。 本節では、各地域で自らの言語を文字であらわす際にどんな工夫をしたのか、そしてみごとに現地化を成し遂げながらもどのように祖先の記憶を失わずに保ち続けているかを見ていこう。図4 ラオ文字の5×5ラオ語本来の語に原則として現れない3段目・D列の字を放棄した点が、タイ文字との大きな違いである。同音異綴が減って読み書き自体は楽になった反面、借用語の語源がわかりにくくなってしまうという副作用をもたらした。表音の合理性を追求することで文化的な情報の一部が失われたわけで、文字が文化と密接に結びついていることを改めて思い知らされる例と言える。ブラーフミー文字の子孫であるインド系諸文字は、多様性を示しつつ、共通点も多く残す。東南アジアの現地語への適応を達成しながらも、祖先であるブラーフミー文字の記憶は、現在のインド系諸文字の中に、確かに刻まれているのである。子音字の取捨 ブラーフミー文字の子音字は「5×5+その他」の体系をなす。「5×5」とは、発音の際に口腔内のどこかが一瞬でも閉じられる子音を表す25文字の体系である【図1】。「その他」にはy、 r、 l、 v、 sなどの子音を表す文字が含まれる。 インド亜大陸のインド系文字の多くでは、「5×5」が各々異なる音を表記する。しかし、東南アジア大陸部のインド系文字には、表記言語本来の(つまり借用語でない)語を表記するのに「5×5」の全てを用いるものは一つもない。図1と照らし合わせながら、図2、3、4をご覧いただこう。Field+ 2011 01 no.5図1 インド系文字の5×5図3 タイ文字の5×5原則として、タイ語本来の語の表記には3段目およびD列(有声有気音)の字が現れない。これらの字は主にサンスクリット語からの借用語を書き表すために用いられる。借用語音が現地音化した結果、3段目の字は対応する4段目の字と同じように読まれ、D列の字は対応するC列と同様に有声無気音で読まれるようになった。澤田英夫さわだ ひでお / AA研 

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