31ンディー語の映画は、その本数が年間250本程度であり、この数字は日本映画の年間上映本数よりも実は少ないのである。 インド映画を語るときには、その製作本数のみをことさらに強調するよりも、むしろインド社会における映画の持つ意味や映画作品の海外への広がりなどの観点から評価することが重要である。インド映画のいまとこれから 今回のインドでのインタビューで何人かの映画関係者から聞かれたのは、近年ようやく映画が産業としての地位を認められたことを歓迎する声であった。かつては、産業として十分な認知を得られず、資金調達も容易ではなかったため、裏社会などとのつながりに依存することもあった映画の世界も、インドの経済発展とともにさまざまな企業などField+ 2010 07 no.431から資金を集めることが容易になってきたのである。これまでは映画の世界の仕事というと、親族や親しい友人の間で経験を通して伝えられることで受け継がれてきた側面が強かった。例えば、チェンナイの大手製作会社AVMプロダクションズでは、創業者の故A.V.メイヤッパン氏(社名は彼の名に由来する)が、自らの地元の親しい人たちを中心に人材を集めて育ててきた様子がインタビューからうかがわれた。彼は今も、「アッパッチ」(土地の言葉で「父」の意味)とみんなに親しみをこめて呼ばれている。しかし、映画がビジネスとしての性格を強めるようになると、人材の育成の仕方にも変化が生じてきた。ムンバイの最新鋭の映画学校、ホィッスリング゠ウッズ国際映画学院では、映画製作にこれまでとは違った知識や能力が求められるようになってきたことが、設立の大きな目的だという説明を聞くことができた。 また、ひとつの建物の中で複数の作品を上映する、いわゆるシネマコンプレックス(シネコン)が、ここ数年インドの都市部で著しい成長を見せてきたが、このことも映画興行のあり方を大きく変えたという。かつてはその作品の題材や性格を考慮したうえで、製作者側の意見を受けて、個々の作品に応じた上映計画が練り上げられたものだが、シネコンの普及以降は、手軽に収益を上げたいという劇場側の意向が強く反映され、どの映画も公開から数日間ほど多数の映画館で集中的に上映して興行収入の大半を稼いでしまうという、日米と同様のブロックバスター型の興行が普通となった。映画産業のグローバル化とともに、興行形態も画一化し、地域の特性が失われていく様相がみてとれる。 また、今やインドの家庭に深く浸透し、映画を凌駕するほどの存在となったテレビの長編連続ドラマについては、それらの多くが、中流家庭を舞台にしたメロドラマ仕立てのもので主婦層に絶大な人気を誇るのに対して、映画は、若者をターゲットにしたリアルな作品をもっとつくるべきであるとある若いプロデューサーは述べている。確かに、最近のインド映画には、かつてのような超絶的なヒーローが大活躍する夢物語のような作品よりも、中産階級の若者たちが悩んだり、恋したりする等身大の姿を描く作品が増えているように思われる。 インドは今急激な変貌を遂げている最中である。映画の世界にもその影響は及び、今インドの映画は大きく変わろうとしているのである。ムンバイの大型ショッピングセンター、オーベーローイ゠モールの中にあるシネコン、PVRゴーレーガーオン。インド映画から洋画までさまざまな作品を上映している。右手端に看板が見える「ロックオン!!」という作品は、ロック音楽を題材に、若者の夢や挫折、友情、愛をリアルに描いて大ヒットした。ムンバイのフィルムシティ内に2006年に設立されたホィッスリング゠ウッズ国際映画学院のメインビルディング。これまでは、映画づくりのノウハウは、代々伝統的に受け継がれるもので十分であったが、映画産業の発展とともに、専門的な映画ビジネスの知識を体系的に身につけることが求められるようになった。ムンバイのホィッスリング゠ウッズ国際映画学院。映画関係の技術者、監督などの養成コースとともに、プロデューサー専門のコースも設けられている。ムンバイ、ホィッスリング゠ウッズ国際映画学院での映画制作実習の様子。学内には、2つのスタジオや最新鋭設備を備えた編集室などがあり、アジアでも最大規模の映画学校となっている。チェンナイの映画製作会社AVMプロダクションズ。1946年創設のタミル語映画界最古参の映画製作会社である。ムンバイのエロス映画館。1938年建造。
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