FIELD PLUS No.4
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10Field+ 2010 07 no.4 私がマレーシアで人類学のフィールドワークを開始したのは1980年代前半。以来今日まで同国を中心に現地調査を継続的に行ってきたが、首都クアラルンプールはそのための基地や中継地点として必ずといってよいほど立ち寄った。80年代、90年代はマレーシアの新経済政策(俗にいうマレー人優遇政策)による高度経済成長期で、イスラーム化政策も同時進行し、都市部を中心にマレー人ムスリムをふくむ新中間層が急速に成長した。特に首都の変貌ぶりは著しく、林立し始めた大ショッピングモール、ホテルや劇場、コンサートホールなどで経済的に豊かになったムスリム消費者層の姿を見かけることも増え、機会を見つけてはこれらの都市空間を観察して歩くのが、いつのまにか私の習慣となった。私がハラール産業というテーマに着目することになったのも、こうして覗いたあるビルの中で開催されていた博覧会イベントで、たまたま「ハラールのゼラチン」なるものを広報宣伝しているマレー系企業に遭遇したのがきっかけとなった。 イスラームでは、神(アッラー)によって「許された(ハラール)」ものと、「禁じられた(ハラーム)」ものとを一般に区別しており、飲食物では豚や酒を禁止していることは周知のとおりだ。90年代以降の日本でもムスリム住民が急増し、ムスリムが飲食可能な「ハラール食品」を扱う商店や販売網も発達しはじめているので、ハラールということばに親しみのある日本人も多少増えているかもしれないが、豚以外の牛、羊、鶏などであっても、ムスリムがアッラーの名を唱えながら屠殺したものでなければハラール肉とはならない。また加工食品一般の場合、豚、酒、その他ハラームとされる物質を生産工程で使用していないことも必要で、科学的な鑑定もされるようになっている。ハラール食品輸出をめざすタイをはじめ、イスラーム圏東南アジア諸国でハラール鑑定の科学センターも設置されはじめた。菓子やヨーグルト、医薬品のカプセルなどにはゼラチンが広く使用されているが、世界のゼラチン生産の6〜7割はコストの安い豚から原料をとっているといわれ、牛や海藻などを原料とする代替的なハラールのゼラチン開発も進んでいる。また化粧品も皮膚を通じて体内に浸透するため食品に準じた扱いとなり、アルコールや豚由来のコラーゲンを使用していないハラール化粧品も登場している。ハラール商品がハラーム商品と同一空間で貯蔵されたり輸送されたりすれば、前者は穢れてハラームになってしまうという見解もあり、ハラール意識の追求は貯蔵、輸送、流通分野にも影響を与えている。 ハラール産業は、このように広範な領域におよぶ市場経済を、生産現場から流通、消費に至るまでの全体系にわたってハラールという価値で再編成しようとする試みといえる。牛でいえば、その牛を育てた飼料自体がハラールだったかどうかも問われており、それが「食の安全」にもつながるという発想だ。しかもこのような宗教基準に終始することなく、食品の衛生・品質管理にかかわる欧米由来の各種グローバル基準も満たしつつ、さらにイスラーム的なハラールの付加価値をつけて、「食の安全」を求める世界のムスリム、非ムスリム双方の消費者を積極的に取り込んでいく姿勢を示している。そのため、イスラーム圏東南アジアではハラール認証基準を整備して究極的にはそのグローバル基準化をめざし、一部中東諸国との連携も図りつつ、国際市場開拓に向けて果敢に挑戦している。 地球上のさまざまな地域文化・社会が、世界を均質化する勢いのグローバル化の波を受けとめつつも、たえずそれを地域的に再解釈するかたちで受容し、ローカル化しながら変容していく現実は、今日の人類学が着実に取り組み明らかにしていかねばならない重要課題である。ハラール産業は、世俗的なグローバル市場経済の代替システムを提供することを標榜する側面においても、また他方、イスラーム圏内部におけるハラール基準についての多様なローカルな議論がかわされている現在進行中の側面においても、グローバル化問題を対象とする人類学にとってまことに興味深く、その動向からしばらく目が離せない。ハラール・インスタントコーヒーをプロモーションする売り子(マレーシア国際ハラール見本市にて)。マレーシア・ムスリム消費者協会の人々。ハラール商品を消費者の立場から常に監視している。タイ、バンコクのチュラロンコーン大学ハラール科学センターは生産品のハラール性を科学的に鑑定する専門機関。マレーシア政府公認のハラール・ロゴで、ハラール認定された商品にはこのロゴの使用が許される。ハラール・ゼラチン使用の薬カプセル、歯磨き粉、菓子を開発したマレー系企業。ハラールのハンバーガー(マレーシア)。ファストフードを代表する巨大グローバル企業への対抗をどこか感じさせるデザイン。ハラール産業は世界を変えるか?グローバル化に挑戦するイスラーム圏東南アジア富沢寿勇とみざわ ひさお / 静岡県立大学、AA研共同研究員スワヒリ・コーストビクトリア湖タイマレーシアバンコククアラルンプール

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