FIELD PLUS No.3
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7Field+ 2010 01 no.3 「せめて指輪でもして、婚約者のいる振りをしていてくれたらなあ」と老父は言った。老父は、私がトルコの村で調査中に滞在していた家の家長である。もう少し長くこの家にいさせてほしいと頼んだ私への答えであった。老父は長期の滞在にかかわる費用や面倒についてはいっさい気にかけなかった。ただ、「私の家にいる限り、おまえの行状はすべて私のナムスに関わってくる」と強調した。 ナムスとは、トルコやイスラーム社会において広く名誉、または自尊心を表象する言葉である。ナムスは、とくに女性のセクシュアリティに結び付けられ、それへの侵犯は殺人より重大だと考えられている。女性は、夫以外の男性と性的関係をもつことを厳しく禁じられる。男性は、身内の女性が、そのようなことにならないように気をつけなければならない。そうでなければ女性本人だけでなく、男性自身の名誉が傷つくのである。女性を守るのは、父親、兄弟、夫、ときには息子であるが、おもに、実家では父親が、婚家では夫が守る。冒頭の老父の言葉は、私に婚約者がいれば彼の(仮の)父親としての責任は半減するからであろう。 こうした事情をよく理解していないと思われる外国人の独身女性を預かるのは、老父にとって気の重いことだったにちがいない。私は言葉を尽くして説明した。「私は、イスタンブルでも、日本でも、“男おんな”と呼ばれています。あなたたちに迷惑をかけるようなことは決していたしません」。私が「男おんな」と言ったところで、老父は「確かにそうだ」と言わんばかりに大きくうなずいたが、「でも、女は女だ。男から襲われたら逃げられない」と言ったのである。 結局は、この家で1年間お世話になることができたが、調査初期のこのやり取りは大変重要であった。農村といえば保守的でイスラームの規範が厳格に守られていると思われがちであるが、実際には、きわめて穏やかに実践されている。生活することそのものがイスラームを実践することになっている村の日常生活では、人々はイスラームの規範についてそれほど自覚的でも意識的でもない。いっぽう、女性に関わる規範については非常に意識的であり、それを緊張をもって語る。いわば、農村の人々にとって、イスラームは意識化されない日常生活の基盤であり、女性に対する規範は逆に意識化された基盤となっている。 人々には、女性や男性に対する極めてはっきりとしたイメージがあり、そのイメージを繰り返し強調する。そのイメージとは、女性というものは「さらわれやすい」ことであり、いっぽう、男性というものは、女性に対してやましい下心を抱き、隙あらば女性を襲おうとし「じっとしていない」ことである。女性は婚姻外の性交渉を行わないだけでなく、その可能性が開かれるような言動をとってはいけない。村には、性的刺激を与えやすい肌の露出した服を着る女性も、顔をより魅力的に見せる化粧をする女性もいない。ゆるやかではあるが、空間的に男女隔離がある。女性はお互いの家を行き来することが多いが、村に数軒あって男性がたむろする喫茶店にはけっして近づかない。 この言わば「男はみんなオオカミよ」という認識のもと男女隔離が行われると、男性の女性に対する性的関心は高まり、男性はますます「じっとしなくなる」。まさに一触即発の状態である。この緊張したなかで、男性は自分の名誉をかけてますます真剣に身内の女性を守る。女性が守られれば男女隔離もますます厳しくなり、男性の性的関心はさらに高まる。男性の名誉が女性のセクシュアリティに結び付けられるのは、むしろ緊張をより高めるための装置のようなものである。ここで重要なのは、このような緊張のなかで性的関心が高められ、性行為自体の価値が高まり、性的関係を行える夫婦間の絆が強まることである。 性的関係のありようは文化や社会によって大きく異なる。ゆるやかな社会もあれば、きびしく制限される社会もある。草食系男子がもてはやされる社会もあれば、男はみんなオオカミよと信じられる社会もある。イスラーム社会は、婚姻外の性交渉を厳しく制限するという性的規範があり、そのことが逆に/だからこそ、夫婦間の絆が強化され、それらを基盤として秩序が構築される社会である。男女関係という、ごく普通の生活世界に注目することによって、人間関係を重視するイスラームの重要な側面がみえてくるのではないだろうか。「男はみんなオオカミよ」がもたらす秩序ムスリムたちの男女関係・トルコ中山紀子なかやま のりこ / 中部大学、AA研共同研究員家の前で農作業をする女性たち。犠牲祭や断食祭でも男女別に行動する。親族訪問に向かってすれちがう男女のグループ。トルコ西黒海地方の村の春。日本と同じく四季がある。村の喫茶店でカード遊びに興ずる男性たち。ローマアテネカイロアンカラエルサレムイスタンブルトルコ黒海地中海紅海調査地の村

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