FIELD PLUS No.3
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6Field+ 2010 01 no.3 パレスチナを夏に訪れ、もっとも多く遭遇するイベントは、結婚式である。乾季にあたる夏は、長期休暇を利用した相互訪問が盛んになるシーズンだ。ほぼ毎日のようにどこかで結婚式が開かれ、知人の家を訪ねると、彼らの親族や隣人の式に誘われることも多い。本稿では筆者がこれまで見てきた式や慣習を、故大塚和夫の分析による下エジプトの事例(「下エジプトのムスリムにおける結婚の成立過程—カリュービーヤ県ベンハー市とその周辺農村の事例を中心に—」『国立民族学博物館研究報告』10巻2号、273-307頁、1985年)や、日本の結婚を念頭におき振り返ってみたい。 中東アラブ諸国でイトコ婚が多いことは、広く知られている。特に父方オジの娘との結婚は、「ビント・アンム婚」として現在でもパレスチナ、ヨルダンなどで散見される。遺伝学的に問題視されがちな近親婚ではあるが、むしろ彼らの間では、「身内の者」との結婚として親族の間の結束を強める役割を期待され、肯定的に評価されることが多い。  だが一方では恋愛結婚も存在し、親の反対を押し切って好きな相手と結婚に至る例もある。ただそのプロセスが、兄弟や親族男性の口添えを紹介に利用するなど、父系社会の慣習にのっとって運ばれる点は、日本とは異なる特徴といえる。 めでたく結ばれるに至った縁談は、結婚契約書を交わすことで法的に成立する。契約に際しては、花嫁に贈られる婚資(マフル)の金額や金製装飾品の量などが話し合いで決められる。それから結婚式までに、花婿が用意した新居に婚資で家具をそろえ、新婚生活の準備が進められるという一連の過程は、下エジプトの場合と同じである。パレスチナ独特と思われるのは、嫁入り支度の際に花嫁が、アラビア語で「トゥラース」と呼ばれる手縫いの伝統刺繍のドレスを数着用意することである。かつては祝宴などで着られたそうだが、最近の若い世代は洋風ドレスを好むため、箪笥の肥やしとなってしまうことが多い。この辺りは日本でいう和服の扱いに近いといえるかもしれない。 婚礼は、前夜祭を含めた数段階に分かれて行われる。筆者が調査を行ったヘブロン郊外の村では、「ラヤーリー」と呼ばれるパー変容するパレスチナの婚姻事情錦田愛子 にしきだ あいこ / 早稲田大学、AA研共同研究員ティーが、結婚式の数日前の晩から花婿宅で開かれていた。夜の8時頃に平服で集まった親族や隣人たちは、男女別々の部屋でタブレ(鼓)の音に合わせて踊る。持ち寄られた贈り物はアルミ製の直径50センチはある皿の上に盛られ、女性たちはその皿を頭に載せて踊る。ブーゲンビレアやジャスミンの花、たくさんのロウソクなどで飾られた皿は、見るからに重そうだが、年配の女性などは丸めたスカーフを頭との間に挟み、うまくバランスをとり両手を広げる。祝いの席で来客を踊りに誘うのは、ホストの責務でもあり、もてなしの一部だ。 ラヤーリーの最終日には、「ヘンナ」の祝いが開かれる。ヘンナとはミソハギ科の低木で、葉からとった染料はインドなどでも肌の染色に用いられる。大塚のいう「床入り式」(上掲書)の前日にあたる晩、花嫁は式場での短い祝宴の後、実家に戻って手や足にヘンナで模様を描いてもらう。伝統刺繍と同様に、ヘンナにもたいてい親族や隣人の中に名人がいて、夏にはひっぱりだこになる。そして当日の朝になると、花嫁は朝から美容院に行き、髪とドレスを調える。これでパレスチナ版ブライダル・エステは完成だ。 結婚式への道のりは、賑やかなクラクションの音で始まる。新郎新婦を乗せた車は、生花やリボンで豪華に飾り立てられ、新婦の家を出発する。後には親族の乗った車が数台から十数台続き、空に鳴り響くクラクションは夏の風物詩ともいえる。到着した結婚式場は男女別の会場に分かれており、ふたりはまず女性側のホールに入る。こちらに入るのを許される男性は新郎のみだ。中では大音声のスピーカーで流れるアラブのポピュラー音楽に合わせて親族がステージで踊り、ウェディング・ケーキへの入刀が行われる。終盤に近づくと、花嫁は羽根で飾られたクルアーン(コーラン)を両手に持って踊り、新郎の手による「タルビース」(下エジプトでは「シャブカ」)と呼ばれる金製装身具の贈与などが行われる。 こうした過程を見ていくと、パレスチナの結婚式や縁談は、西洋とアラブ、伝統と近代、イスラーム、ポピュラー・カルチャーなど多くの要素が織り込まれていることが分かる。どの要素が重視されるかには地域差もあるが、最も大切なのは本人と両家の家族の意向である。古今東西、事情は同じ、婚姻は親族間の最大のイベントであり、関心ごとといえるのかもしれない。結婚式のお色直しの最後は、必ず黒い衣装で締められる。新郎・新婦が乗るウェディング・カー。花嫁の手に描かれたヘンナの模様。結婚式ではやはり純白のウェディング・ドレスが主流。床入り式の翌朝の祝い「サバーヒーヤ」の料理。娘の処女証明が確認された祝いでもある。50kmガザエルサレムテルアビブベイルートイスラエルパレスチナ自治区ヘブロン死海50kmガザエルサレムテルアビブベイルートスラエルパレスチナ自治区ヘブロン死海アテネカイロアンカラバクダッドテヘラン黒海イスラエル紅海ペルシャ湾(パレスチナ)

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