30「音楽の研究」は「趣味」? 誰が言い出したのか、日本ではしばしば「音楽は文字通り、音を楽しむものだ」という意見がまことしやかに語られる。私の専門分野は音楽学だが、音楽は楽しむ(そして感じる)ものであって、あれやこれや小難しい概念や言葉を振りかざして音楽を「考える」など野暮だというわけだ。そういうわけで、我々がフィールドで音楽を対象に研究をしているというと、好きな音楽が聴けていいですねと言われるなど、大抵の人からは(他の分野の研究者からも)殆ど趣味だと思われている節がある。 しかし好きなだけでは研究にならないのは、他の人文科学同様、音楽学も同じである。ヨーロッパのクラシック音楽研究から出発した従来の音楽学が必然的に音楽そのものの詳細な分析に終始する傾向があったのに比べると、「非西洋」を射程においた「民族音楽学(そうした区分の仕方はヨーロッパ中心主義の名残で問題なのだが)」や音楽社会学の隆盛により現在では、音楽そのものよりも、音や音楽を巡る人々の感覚・意識やその社会的機能などについて考えることが一般的となり、その意味で他の人文科学ともかなり重なり合っている。 そうしたなか私が興味を持っているのは、各国の音楽の「判りにくさ」についてである。趣味として音楽を聴くなら確かに自分の好きなものだけを聴いていれば良い。しかし研究者としては、すぐに聴いただけではよく判らない、そしてひいては、そうした「判らない自分」とは何者なのかについて考えさせてくれる研究対象にこそ惹かれる。「判りにくさ」をもたらす要因については数多あるが、1つの例としてここでは「微分音」を挙げてみよう。「微分音」というハードル ここでいう「微分」とは、半音以下の音の幅のことである。私たちが普段よく耳にする音楽の殆どは半音単位の音階で構成されている(ピアノの鍵盤もギターのフレットも半音単位で作られている)。「音楽の三要素」の1つとされる――つまり普遍的なものと信じられている――ハーモニー(和声)も、そうした半音単位での音階を前提として成り立っているものだ。 しかし世界を広く見渡せば、もっと細かい音の幅を設定して営まれている音楽は実にたくさんある。中東の音楽はこうした微分音の宝庫でもある。半音を2分の1音とするとその更に半分の4分の1音から、例えばトルコ音楽では9分の1音まで、奏者による振れ幅なども加えると、実際の運用は更に多岐にわたる。そしてこの微分音こそが、中東の音楽の、何ものにも代えがたい妙味のひとつとなっている。 しかし一方で、こうした音程はともすれば西洋音楽の素養をしっかり身に付けたものほど、「外れた音」としてField+MUSIC「判りにくい」音楽から学ぶこと谷 正人 たに まさと/神戸学院大学Field+ 2010 01 no.330私たちはよく、「音楽は〈音を楽しむ〉と書く」「音楽に国境はない」という言葉を耳にする。それでは、実際にフィールドで様々な「民族音楽」と出会う研究者にとっても、それは常識なのだろうか?中東世界で広く使われているウード。音色自体の魅力ももちろんだが、音程を区切るフレットがなく各国の様々な微分音に柔軟に対応できるのもその理由のひとつ(写真のものはトルコ)。
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