29Field+ 2010 01 no.3の調査を終えて帰国したときのことだった。二度目のそれは、大塚先生と学問的な話をした最後の機会となってしまった。 本書の関心が〈イスラーム的なもの〉にあるのはもちろんだが、それと同時に、〈イスラーム的なもの〉を「どっちの方向からみたら何が言えるか」についても、強い関心がみられる。「啓蒙思想」「近代」「世俗化」といった概念は、よく知られた言葉でありながら、著者が慎重な態度で、その手によく馴染ませた道具となった。こうした一連の概念が、特定の社会や時代のなかに〈イスラーム的なもの〉を位置づけ、同時代を生きる者として、著者が〈イスラーム的なもの〉の問題を積極的に共有しようとする姿勢につながっている。 結果として、著者は、イスラームとムスリムを相対化する視点を獲得した。と同時に、本当に重要なのは、その先にある事柄なのだと、こちらに語りかけているようにも思われる。だから、「どっちの方向からみたら何が言えるか」が、本書のもうひとつのテーマだ。先へ先へと延びていく視点をたどってゆくと、思わぬ広がりを見出すだろう。 大塚先生が気持ちをこめて使われていた言葉のひとつに「経験」というのがあったことを思いだす。スーダンの首都ハルトゥームのレストランかどこかで、地元の音楽がかかったときのこと。先生と同席していたふたりの日本人研究者のうち、中東史家が、この音楽が「アフリカ的」に聞こえると言ったのに対し、スーダンの非アラブ系住民を調査していた人類学者は、「アラブ的」に聞こえると感想を述べたのだそうだ。すぐにはその学術的意味を推しはかりかねるような、「ちょっとしたエピソード」に対して、「これだってひとつの経験や」と、大塚先生はおっしゃった。 『いまを生きる人類学』は、先生の、「経験」に「執着」(この言葉もよく使われていた)する姿勢がもっともよく表われた著作だと思う。表題の「いま」という言葉は、同じことの別の言いかたである。 人類学は現在44学であるかぎり、時流に応じた人びとの生活の変容 に対応しなければならず……研究のテーマや対象領域の面でもさま ざまな変遷をとげてきたし、これからもそうなっていくだろう。む しろそれが健全なのである。いや、そのような臨機応変さを欠いた ならば、「同時代者」……の現実などみていくことができないだろう。 (p.150、強調は原文のまま) 以前、調査地のレバノンが爆撃されて、私は調査を中断したことがあった。大塚先生からは、「これでもう終わりだと思うのではなく、これを糧に、いっそうあなたの人類学を伸ばしていってください」という内容のメールをいただいた。しかし、当時は、「もう終わり」ということにばかりとらわれ、「人類学を伸ばして」いくことにまで考えが及ばなかった。 本書を再読して、「人類学を伸ばして」いくことの意味が、少しだけわかったような気がする。「オマエさん以上に、レバノン人はたいへんな目に遭っている。そこをおさえなきゃ、現在学としての人類学は成りたたんで」と、大塚先生に言われているかのような読後感が残った。これは勇気のでる本だ、と思った。 (池田昭光)いまを生きる人類学――グローバル化の逆説とイスラーム世界中央公論新社、2002年先生が主宰されていた個人的な勉強会で講読したテクスト。2009年7月におこなわれたお別れの会にて配布された冊子『ありがとう 社会人類学者大塚和夫の軌跡』(めこん)。レバノン、ベカー地方にて。農地のなかを歩く大塚先生と近藤信彰先生。
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