24Field+ 2010 01 no.3 よく、目に染み入るような釧路の夕焼けという思い出話をした。安酒で酔いが回ってくると、夕焼けの描写はずっと細かくなった。北海道の釧路は大塚和夫の故郷である。 沖縄が祖国復帰をした年、1972(昭和47)年の春に、大塚と河合利光(現園田学園女子大学教授)、そして私の三人は東京都立大学大学院修士課程の社会人類学専攻に入った。大学院の同期生であったことに免じて、ここで故人を呼びすてにするのをお許し願いたい。 その頃に大学院生活を送った世代でないと、いまでは想像のしにくい時期であるだろう。同期入学の三人で英文講読会を開いたことがあった。テキストは、当時すでに数冊が刊行されていたA. S. Aモノグラフ(Association of Social Anthropologists Monographs)のシリーズだった。C. Geertzという名前を見て、「この人類学者、いったいどう読むのか?」などと囁き合っていたのだから、どのような時期だったのか、おおよその見当がつくかもしれない。 大学院には就職前の先輩たちがずらりと並んでいた。学籍を抜いた人まで含めると、全部で20人近かったと記憶している。当然のことながら、いつの日、この専門分野で飯を食えるようになるのかが院生たちの大きな関心事であった。なにしろ人類学の知名度は低く、専任のポストも少ない。先の見えない隘路を歩いていることは否定しようがなかった。 大塚は妻帯の大学院生だった。最初に顔を合わせたときには、高校時代に釧路で同じ夕焼けを眺めたという美保子夫人と新婚生活を始めていた。住まいは杉並の高円寺駅に近い木造の古アパートである。その頃の私は自宅生であったから、一方的にこちらが大塚の新婚家庭を訪れることになった。お互いに酒とタバコに関してはきわめつきの愛好者であり、さぞかし美保子さんには迷惑だったろう。 まだイスラーム研究に照準を定める前の時期である。大塚は将来を見つめて、大量の専門文献を読み、アルバイトに時間を割きながら定期的に英会話の講習を受ける、という勤勉な日々をすごしていた。見通しの悪い隘路であっても、大塚にとっては進むべき一直線の道であったようだ。それに対して、私の方は人類学という学問に迷いを持っていた。いくらアフリカやオセアニアの民族誌を読んでもそこに描かれた人たちと実際にふれ合う可能性は小さい、異郷の人々について日本語で書いたとしても当人たちがそれを読むことはあるまい、などというのが私の言い分だった。大塚はそうした素朴な迷いを一笑に付すことがなかった。心ゆくまで語ろうとする姿勢をつねに崩さず、それでいて人類学者への道をひたすら歩んで行くという強い信念は揺るがないように見受けられたのである。 私たちが博士課程に進んだ頃から、日本の人類学を取り巻く状況は少しずつ変わっていった。大学の教養課程を中心に文化人類学の需要が増え、大阪に国立民族学博物館が創設された。隘路に拡張工事が施され始めたと言っていい。そして、その状況の変化と歩調を合わせるようにして、大塚と私はそれぞれ別方向の道を目指すようになった。 大塚と大学院生さながらの青くさい議論をした最後の機会は、1986(昭和61)年の正月早々だったと思う。先輩にあたる野口武徳氏(当時は成城大学教授)の葬儀のときである。大阪から上京した大塚は、前の晩に私のマンションに泊まった。若い頃と同様、安酒とタバコに身を浸しながら、相変わらず人類学の話ばかりをした。もう名前を読めるようになっていたギアーツの著作も話題の一つになった。野口氏の葬儀に参列したと言うと意外に思う人がいるかもしれないが、大塚がイスラーム研究を始めたとき、その直接のきっかけになったのは当時東南アジアのムスリムを調査していた野口氏の存在であった。 私たちの世代とはまた向きの違う隘路が、いま若い大学院生たちの眼前に現れている。学生思いの大塚は、その状態をとても気にかけていたはずである。しかし、とうとう二人でそんな話をする時間はなかった。そして、釧路の夕焼けはまぶしいぐらいだぜ、という大塚のあの懐かしい肉声を聞くことも、もうない。大塚和夫と共に「隘路」を歩いていた頃笠原政治 かさはら まさはる/横浜国立大学名誉教授イスラーム人類学の先駆者社会人類学者大塚和夫 大塚和夫先生は、東京都立大学を拠点として開花した日本の社会人類学という専門を礎に、その幅広い関心と深い知識をもって、歴史と伝統の厚い、いわゆるイスラーム学者とも果敢に議論を交わし、人類学におけるイスラーム研究を切り開いた方であった。人間の学だからこそ必要な、分野をまたいださまざまな知識を身につけること、そして人類学のもつ「フィールドワーク」という、研究者がその一生をかけて行う営みを、つねに第一に掲げられていたとも思う。私自身は「イスラーム」の人類学者ではないが、フィールドにばかりに行く大学院生だった私に先生は、幅広い知識を積み上げるべき新婚のころ。1970年ごろ。(1949年10月11日 - 2009年4月29日)
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