FIELD PLUS No.3
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19Field+ 2010 01 no.3三陸沖のイシイルカ。高速で船首の波に乗るのが大好きく違った意味になってしまったりする。一方トーン言語では、音の高低だけでもある程度意味を通じさせることができる。ボンガンドには高い音と低い音の出る場所をもつ横長の太鼓があるが、その高低の音の組み合わせで話し言葉のトーンをなぞることで、相当複雑な意味を伝達することができる。このためその太鼓は「トーキング・ドラム」と呼ばれる。 声の遠距離伝達が可能であることにより、彼らの発話は「誰々に宛てて発話する」というアドレス性が弱く、「拡散的」な性格を帯びてくる。私は調査当時、理学研究科所属で、学位論文を出すために数量的なデータも集めなければならなかったのだが、村の中で聞こえる声の統計的手法を用いた分析からは、昼中はどの瞬間も、90%の確率で少なくとも一人の声が、そして50%の確率で少なくとも二人の声が聞こえている、という結果が得られた。村は声に満ちている。とくに夕方になり、人々が森や畑から帰ってくると、村の中はにぎやかになる。声を光にたとえると、あちこちで絶えず花火が打ちあがっているようである。 しかし、たんなる物理的な音声ならば、私は別に平気なのである。慣れることができなかったのは何かというと、それはそういった声による「過剰なかかわり」とでも言うべきものだった。たとえばこんな具合だ。私は疲れるとしばしば扁桃腺が腫れて高熱を出すのだが、そんなとき家の窓を閉めて寝ていると、外で大声で「ボンデレ(現地語で白人のこと、日本人もこのカテゴリーに入る)は寝ている!」と言うのが聞こえる。よく子供がパパイヤやキノコなどを売りにくるが、たくさん買っているのでいらないと言うと、くるりと振り向いて村中に向かって、「アテ、アハランゲ!(彼はいらないと言った!)」と叫ぶ。私は「放っておいてくれ」とつぶやかざるを得なかったのである。また、村の真ん中の広場で大声で叫ぶ、彼らが「ボナンゴ」と呼ぶ独特の発話形式も同様な傾向を帯びている。ボナンゴでは重要な情報がアナウンスされることもあるが、その多くは、言っても言わなくてもいいような内容である。たとえば「親は敬わなくてはいけない」とか、「うちの孫が学校に行きたがらない」とか、さらには「このごろ雨ばかり降っている」(これはトーキング・ドラムによるボナンゴで語られる)といった愚痴のようなものも大声で語られるのである。「何でそんなことをこの俺が聞かされなければならないんだ」とため息をついたものだった。たしかに聞きたくなければ聞かなければいい。しかし何か大変な事件が起こったかのように、大声で熱心に語っている姿を見ると、私はどうしても気にせざるを得ない。そのような、いわば「インタラクション的うるささ」が、私が今もって慣れることができない彼らの声の特性なのである。 なぜそんなどうでもいい内容をブロードキャストしなければならないのか。それは今もってひとつの謎なのだが、それを考えていると、逆にわれわれの(とくにアカデミックな文章などで)「できるだけ無駄なことは言わない、書かない」というやり口の正当性の方が、逆に疑問に思えてくるのである。無視することの技術 さて、彼ら自身はそのような声に対してどのように対処しているかというと、それは言ってみれば「みごとな無視」である。村の中ではしばしばボナンゴが耳に入るが、それを聞く人の顔は無表情で、話し手の方を向くことさ友達と森へ森の罠の調査をした帰り道に出会った仲良しの女性の4人組。「写真を撮って!」としつこくせがまれたので撮った一枚。調査する私 フィールドではなかなか自分の写真というのは撮れない。これも実はセルフタイマーで撮った半分やらせの写真。え少ない。私が「彼は何を言っているんだ?」と尋ねても、めんどくさそうに「あれは家族の問題を言っているんだよ」などとぼそりと説明するのみなのである。調査の途中から気づいたのだが、そのような無視の態度を取らず、いちいちの発話を気にしていては身が持たないのである。社会学者アーウィン・ゴフマンは「儀礼的無関心」という概念を提示したが、それを生活のかなりの部分で、みごとに遂行しているのがボンガンドたちなのである。(ボンガンドの発話についての詳しい記述は、拙著『共在感覚』を参照いただきたい。) 最近、ボナンゴの話をするとよく返ってくるのが「それはインターネットのブログに似ているのではないか」というコメントである。たしかに、言っても言わなくてもいいようなことを(すべてのブログがそういうわけではないが)、不特定多数に向かって語りかけるというスタイルは、メディアこそ違え構造的には同じである。それを読んでも読まなくてもいいのも同様だが、ネット中毒になると、ブログやメールによるかかわりを保ち続けなくては不安で仕方がなくなってしまう。そういった、横溢するかかわりに対するボンガンドの「みごとな無視」の態度は、つながることと切ることにかかわる、ひとつのやり方を我々に教えてくれているように思う。(木村大治ホームページhttp://jambo.africa.kyoto-u.ac.jp/~kimura/の下に動画を置いているので興味のある方は参照されたい。)

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