FIELD PLUS No.3
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17Field+ 2010 01 no.3ると、発音というのはぞんざいでも、つまり音声的な姿が完全でなくても、もとの単語が同定できるからだ。そういうぞんざいで不完全な発音は観察しない。音の情報だけで、その単語を同定させるような条件での発音を観察しなければいけない。 上記の(1)〜(4)のうち、フィールドワーカーが「聞く」のは(1)だけである。他は相手に「聞かせる」行為と、自分の発音器官の運動を理解する行為である。さらに、このあとの段階では、こうして記録した単語がたまっていく過程で、単語を構成する子音や母音の各々が現れる位置(どんな順序で配列するか、語頭か語中か語末か)、前後の音は何かなどを分析するパズル解きのような作業になり、「聞く」ことからは一旦さらに離れる。この分析の結果、主要な音韻体系(子音と母音の種類の分類一覧、単語を構成する際の子音や母音の配列規則、音の交替の規則)が分かる。器械を用いた音声学的観察を導入するのは、これらの一連の調査分析が終わってからである。3 発音を「見る」 器械音声学的手法の導入の大切な目的は、フィールドワーカーが自身の耳と口で聞き分け発音し分けて、主観的に内省して理解した言語音の区別の発音メカニズムを、だれにでも見分けがつくように視覚化することにある。「聞く」を「見る」に変換することで、主観的観察の正しさを客観的に判断する手がかりを与えることである。これは未知の言語の調査をしていて、これまでには知られていない(あるいはきわめて少数の言語にしか知られていなかった)発音の区別が発見された場合、その報告や記述、それにもとづく理論的な議論にとって、その信頼性を保証するために決定的である。たとえば、私が調査をしているコイサン諸語のように、世にも稀な複雑な発音方法で多数の音を区別している言語では、たとえどれほど自分の聞き分けと発音区別の正しさに確信があっても、器械音声学的資料の提示がなければ、信頼性の低い調査結果と見なされる。 器械音声学的な観察・観測には、音声学実験室で行うような高度に精密な手法もある一方、私が行っているようなカラハリ砂漠で実施することのできる比較的簡単な方法もある。たとえば、録音資料の音響分析がそのひとつである。ほとんどすべての言語学的現地調査では、母語話者の発音の録音をとるものだ。その録音が充分に高音質であれば、音響分析ソフトウェアで分析し、聞き分けの手がかりになっているはずの様々な音響特性を提示することができる。 図1は、コイサン諸語ター語族コン語に発見されている非常に珍しい発音の区別を、音響的な分析結果で示した例である。詳細には立ち入らないが、ここに示した2つの単語の頭子音([ts’]と[ds’])は、「放出音」と呼ばれる特殊な気流機構で発音され、この言語では、両者の区別にさらに声帯振動の有無つまり有声と無声の区別も関与している。このように「放出音」に声帯振動の有無の区別がなされるのは、世界の言語の中できわめて稀なことで、コイサン諸語のごく一部にしか観察されない。図の2単語の開始部を見ると、右側の単語では[ds’]の前半部分に模様が見られるが、左側の単語の[ts’]の前半部分は空白になっていることが明らかだ。実はこの模様の有無が声帯振動の有無を示している。このような特殊で稀な発音の区別を報告する場合には、ここに掲げたような器械音声学的な資料を用いて、調査者が聞き分けた音を視覚化して示すことが期待される。さもないと「聞き違い」では? と疑われかねない。 フィールドワークで比較的簡単に用いることのできるもう一つの器械音声学的手法として、静的パラトグラフィーという技術がある。これは、炭の微粒子を食用油で溶いて、これを母語話者の舌に塗り、ある発音をしてもらった後に鏡を口にいれて上あごを撮影するという観察方法である。これによって、ある発音の際に、舌と上あごの間のどの位置に接触(狭め)ができているかという「調音位置」が炭ペーストの跡として観察されうる(図2参照)。写真3は、グイ語の舌打ち音の際に用いられている舌と上あごの接触を記録する際に行ったパラトグラフィー調査の一場面である。舌に塗った絵の具のような炭ペーストが、発音のあと上あごに接触の跡を残す。写真は、それを撮影しようと特殊な歯科用カメラの鏡部分を口に挿入するところである。発音につかわれている調音位置の区別が特殊で珍しい場合には、パラトグラフィーをもちいることによって、その記述の正確さを判断するための視覚化された資料を提示することができる。 以上述べてきたように、発音の現地調査、つまり音声学的フィールドワークをあらためて眺めてみると、発音自体を調査者が「聞く」行為はきわめて限定された、初めて単語を発音してもらう段階に集中している。そして、聞き分けた音が複雑で珍しい発音である場合には、「聞く」だけではなく発音を「見る」ことがフィールドワークにとって重要になる。それは、調査者に「聞こえた」聴覚的な違いを、だれにでも「見える」視覚的な違いにすることによって、主観的な聞き分けの正確さを判断する客観的な根拠を用意するためである。写真3 パラトグラフィー調査。図1 コン語の[ts’]と[ds’]の区別を示す例。図2 パラトグラフィー調査(日本語の「田(た)」の発音。舌と上あごの間の接触が黒く炭の跡として記録される)。写真4 カラハリ砂漠のコイサン集落。

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