FIELD PLUS No.3
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16Field+ 2010 01 no.31 言語学的フィールドワーク 私が行っているフィールドワークはまだ詳しく知られていない言語の言語学的資料を収集するためのものだ。「知られていない言語」とは、未知の言語であれば何でも良いというわけではない。調べた結果、理論的に興味深い知見がもたらされなければならない。調査結果から言えることが、どれも世界の言語にありふれたものばかりだというのでは、フィールドワークの価値は低くなる。 フィールドワークで集める言語学的資料とは、簡単にいうと、調査している言語の発音と辞書と文法を記述するための資料である。私の主要な専門分野は、このうち発音に関わる事実を理解する音声学・音韻論という領域であり、単語や文を作るときに使われる子音や母音やアクセントや声調などの種類、それらの並び方の法則、語形変化をするときの発音の交替の規則を特に調べる。 では、そういう事実を収集する目的は何だろうか。次の3つがあげられる。最初の目的は、それらの事実を分析して、その言語の発音の仕組みを正確に理解するための記述をすることである。2つめの目的は、その言語と同系統の言語についても同様の事実を調べて綿密に比較することで、その言語グループの発音に起きた歴史的変化を、つまり発音の歴史を書くことである。そして3つめの目的は、これまでに言語学が蓄積してきた世界の言語の発音にかかわる知識に照らし合わせることによって、自分が調べている言語の音声学的構造・音韻論的構造が、どのような新しい知見を人類の知識体系に付け加えることになるかを考えることである。個々の言語がどんな発音組織をもっているかという点でも、また、個々の言語がどんな発音の歴史的変化をしているかという点でも、世界の言語の中での位置づけを考えることは、その言語の資料の理論的な意義を明らかにするために重要だ。 私がフィールドワークをして調査している言語は、南部アフリカのボツワナ共和国の乾燥帯であるカラハリ地域で話されているコイサン諸語のうちコエ語族に属するグイ語、ガナ語、ハバ語である。コイサン諸語とは、いわゆる「ブッシュマン」や「ホッテントット」と呼ばれて来た狩猟採集民や牧畜民の話す言語群で、ジュー(北コイサン)語族、ター(南コイサン)語族、コエ(中部コイサン)語族の3つからなる。これら3語族のうち、もっとも語族内の多様性を示すのがコエ語族で、歴史比較言語学的な考察の対象として意義がある。なかでも私の調査している3言語は分類の定説の再考にとって興味深い。またコイサン諸語は、世界の言語のなかできわめてユニークな音体系をもっている(子音に数十種類の舌打ち音が区別されたり、単語内での音の現れ方に奇妙な制限がある)ことで有名で、そのような発音体系の調査は、歴史音韻論的研究にとっても、また世界の言語音の限界を理解するための理論にとっても資するところは多大である。2 音声学的フィールドワークに おける「聞く」という行為 未知の言語の発音を「聞く」というのは、いったいどんな仕方でするものだろうか。聞いたことも無い発音の観察は、最初は器械の助けを借りて行うのか? という質問をうけることがある。答えは否で、最初から器械的手法を使うことは決してない。では、どうするかというと、まず(1)自分の耳で母語話者の発音を聞いて、(2)即座にそれを自分の口で再生して(真似して)、(3)それを母語話者に聞かせて、正しい発音であることを確かめる。(4)つぎに今の自分の発音がどのようなものだったかを内省して、それを発音記号で記録する。内省から発音記号にするまでの技能は調査前に準備しておく。発音記号は国際音声記号(IPA)として提案されているものを基礎にして、それで足りない場合は、便宜的にその場で自分で定義した補助記号を使う。 これが、要するに、知らない言語の発音についてのフィールドワークにおける、最初の課題といえる。ここで「聞いて真似して聞かせて正しく記録する」際に用いる言語単位は、「単語」あるいはもっとも簡単な句である。つまりなるべく文脈なしで発音できる、しかも意味をもっている単位を使う。文脈が豊富にあ未知の言語の発音を「聞く」というのは、どんな仕方でするのか。そうして聞き分け、発音し分けた言語学的資料をだれにでも見分けがつくように視覚化するとは? 南部アフリカのカラハリ地域で話されている言語を対象としたフィールドワークを紹介する。聞く 2ボツワナ共和国発音を「聞く」から発音を「見る」へ中川 裕 なかがわ ひろし/東京外国語大学大学院、AA研共同研究員写真1 ハバ語の調査。協力者の小屋の横にて。写真2 グイ語の資料録音。調査用小屋の中で。アフリカカラハリ地域

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