FIELD PLUS No.3
10/36

8Field+ 2010 01 no.3「預言者の履物」モチーフ。 弘法大師やイエス・キリストの奇蹟譚は広く世に知られているが、イスラームの預言者ムハンマドもまた、数々の不可思議を人々の眼前に展開したと語り伝えられている。いわく、彼は地に影を落とさなかった、彼の髪/髭は火にくべても燃えなかった、蝿は彼の衣服に決してとまらなかった、彼の履物は砂地でも痕跡を残さなかった、しかし彼が素足で岩の上を歩く時には必ず足跡が残った。そうした奇蹟の証拠品として崇敬の対象となってきたのが、「聖なる髪/髭」と「聖なる足跡」をはじめとしたイスラームの聖遺物である。 南アジアでは、イスラームの聖遺物は「タバッルカート」(バラカを宿した事物)、「アーサーレ・ムバーラク」(バラカを宿した遺物)などと総称される。人々は、聖遺物に宿るバラカすなわち「神の恩寵」を獲得するために、直接的・間接的な物理的接触を試みる。具体例を見てみよう。 インド、オールドデリーの入り口付近に鎮座するジャーマ・マスジドと、パキスタン、パンジャーブ州都ラホールの旧市街北端に位置するバードシャーヒー・マスジドは、ムガル期モスク建築の双璧である。ジャーマ・マスジドには、ムスリムだけでなく、聖遺物参拝を目的としたヒンドゥーも大勢訪れる。異教徒は聖遺物に触ることを許されてはいないので、接触を果たしたムスリムの手や衣服に触らせてもらう。バードシャーヒー・マスジドの聖遺物は全てショーケースに収められ、武装警備と防犯カメラの厳重な監視下にある(2002年に盗難事件が発生したため)。これでは接触は不可能だが、展示室の中央に置かれ、聖遺物が放出するバラカを絶え間なく浴び続けるバラの花びらを、各自が好きなだけ持ち帰ることができる。 イスラームの聖者廟にも、多くの聖遺物が保管されている。それらは一年に一度、預言者祭(ヒジュラ暦第3月12日)の折などにのみ一般公開されるため、参拝者の接触に対する熱望は必死の域に達する。改革主義者は、このような熱狂的な信仰態度を繰り返し非難してきた。ただし、聖遺物が本物であり、かつ作法に叶っている限り、参拝行為自体は否定複製化/商品化されるイスラームの聖遺物南アジア的宗教実践のポストモダン状況?小牧幸代こまき さちよ / 市立高崎経済大学、AA研共同研究員されないという見解も示された。ところが、本物でなくとも信仰の対象となる聖遺物もある。 預言者祭の期間中、南インド、ハイデラバード市のサーラール・ジャング博物館では、聖遺物のスチール写真展が開催されていた。来場者には、受付で一輪の深紅のバラが進呈される。人々は、預言者がこよなく愛したとされるバラの花で、展示室の四方の壁に掲示された二次元上の聖遺物の輪郭をなぞり、その花びらを自分たちの頭、そして顔に触れさせる。写真のなかの聖遺物は、疑う余地なく、バラカの媒体として機能していたのである。 さらに衝撃的なのは、聖遺物のデジタル画像に対しても敬愛の念を表明する人々がいたことである。ある時、筆者はムスリム友人の家族らに近況報告をするなかで、これまでに撮影した聖遺物の画像をパソコン画面に映し出してみせることになった。すると、彼らは仮想空間の聖遺物に対してクルアーン(コーラン)の章句を唱え、手で触れたり接吻をしたりしはじめたのである。 聖遺物は、商品化もされている。南アジアで流通している護符・御守としての聖遺物グッズは、なべてカラフルな色彩とコンパクトな形状のポップ感覚を呈するとともに、そのモチーフは二つのパターンに分類できる。一つ目は、預言者の緑色のターバンを巻いた帽子、緑色の外套、錫杖の三点セットで構成された、いわば「三種の遺品」モチーフであり、これは様々な大きさのポスターや葉書サイズのカードなどに多用されている。二つ目は、預言者の「履物のデザイン画」であり、こちらは多くの場合、掛け軸仕様の壁掛けや名刺サイズのカード、ステッカーなどのモチーフとなっている。 聖遺物グッズは、肌身につけたり自宅に飾られたりして個人化・私物化されつつも、頭よりも高い位置での掲示や保管、携帯時は財布や手鞄などに入れ貴重品扱いするといった具合に、慎重な取り扱いを要求される。複製化/商品化された聖遺物も、本物と同じように信仰の対象であり、バラカの媒体となっているのである。 複製品は、本物がもつ「アウラ」を喪失していると言われる。だが、それは単なる偽物ではないし、オリジナルの価値を解体するものでもなさそうである。これを聖遺物信仰のポストモダン状況と捉えることができるだろうか?バードシャーヒー・マスジド、正門2階部分に聖遺物展示室がある。預言者祭、一年に一度の聖遺物公開儀礼で接触を試みる信者。聖遺物写真展、聖遺物の写真にバラの花を触れさせる人々。「三種の遺品」モチーフ。コルカタムンバイチェンナイカラチイスラマバードニューデリーバンコクハイデラバードラホールオールドデリーインドパキスタンジャーマ・マスジド、北東の角に聖遺物収納庫がある。

元のページ  ../index.html#10

このブックを見る