トで販売するための換金作物という位置づけで考えるのがよいかもしれない。 ガダルカナル島北岸部の人びとのこうした生活状況は、次のような条件によるところが大きい。第一に首都ホニアラから車で1~2時間ほどの距離に位置していること、第二に国内最大のアブラヤシ農園があるおかげで、首都と農園とをつなぐ幹線道路がきちんと舗装されていることである。これら2つの条件が揃っているため、ガダルカナル島北岸部は首都へと農作物を供給する立場にあるのだ。を回避していた村人たちもいた。 それでは、住んでいた場所を離れて避難した人びとはどうだったのか。「この地域の住民の約6割が住む場所を失った」、「彼らはブッシュに逃げるしかなかった」などの報告がある。しかし、私の調査から明らかになったのは、彼らが口にする「ブッシュ」が、いわゆる藪やジャングル、内陸部の山地だけを意味するのではなく、集落から徒歩1時間ほどの距離にある自分たちの畑のことも意味しているということだった。親族などを頼って遠く離れた集落まで避難した者もいたが、ほとんどの村人たちは畑に小屋を仮設し、不安を覚えれば別の畑へと移動するといった行動をとっていたのである。このように、避難生活の中でも、彼らは食に関して危機的な状況に陥ることなく生活を続けられたのであった。25畑に仮設された小屋の様子(2012年7月)。現在でも、畑仕事に集中したいときなどに、このような仮設小屋を建てて寝泊まりすることがある。*写真はすべて筆者撮影。戦争や暴力がなくても平和とは呼べない事態の一例。毎年のようにサイクロンが訪れるガダルカナル島では、上流で降った大雨によって河川が氾濫し、集落や畑が水浸しになることがしばしばある(2011年8月)。紛争状況下における日常生活 紛争中、首都区画の境界線付近で、ガダルカナル側武装集団と首都区画側を警備・占拠していた警官隊やマライタ側武装集団が対峙したといわれている。この間、ガダルカナル島北岸部の人びとは農作物を首都へ売りに行くことができなくなるとともに、コメやインスタントヌードルといった食品を買ってくることもできなくなった。すでに購入食品が頻繁に食卓に並ぶようになっていたガダルカナル島北岸部の人びとは、それでも自分たちの畑から収穫される農作物を日々の食料として生きのびていた。 また、村人たちは「(自分たちの仲間であるはずの)ガダルカナル側武装集団の連中に食料を巻き上げられた」といった話をよくしてくれる。彼らによれば、武装集団のメンバーたちは農作業などせずに、地元住民たちを脅してサツマイモ等の食料を得ていたという。こうした関係を逆手にとって、武装集団に食料を提供することで紛争に巻き込まれること民族誌調査と平和研究のつなげ方 暴力的な紛争現象に照準を合わせつつも、周辺視野に映り込む「ありきたり」の日常生活を見つめることは、「戦争や暴力がない状態」として平和を捉えるような思考法に再考を促す。戦争や暴力がなくても平和とは呼べない事態はありうるし、逆に紛争状況にあってもいわゆる平和的な日常生活は営まれ続けている。戦争や暴力以外で平和を阻害するものが何なのか、現地の人びとがどのように日常生活を組み立てているのか、現地の人びとが「平和」をどのようにイメージしているのか。これらを、フィールドワークで得られた知見から示していくことが、民族誌調査と平和研究をつなぐことになると私は考えている。
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