ゆ油場所を離れて避難を余儀なくされたことになる。その中でも、特に多くの人びとが避難を強いられたのが、紛争の激戦地となったガダルカナル島北岸部であった。さく この地域には広大なアブラヤシ農園とその搾工場があり、当時の農園労働者の約7割がマライタ系住民で占められていた。彼らは自分たちの親族を大勢呼び寄せてもいた。そのため、マライタ系住民を島から追い出したいガダルカナル側の武装集団にとって、この地域は恰好の標的であった。しかし、マライタ系の農園労働者とその親族だけでなく、ガダルカナル島北岸部で生まれ育った人びとも、この紛争に巻き込まれることを避けるため、住んでいた場所を離れて避難したという。 ソロモン諸島の紛争に照準を合わせながらフィールドワークを進めているうちに、戦場となったガダルカナル島北岸部の人びとが紛争中にどのような生活をしていたのかに目を配る必要性を感じるようになった。 平和や紛争について研究する場合、どうしても紛争を社会病理や非日常的な現象として特別扱いし、ことさらに注目してしまいがちになる。しかし、武力衝突が起きているとはいえ、その武力衝突の当事者は個々の戦闘員である。そして、それらの個人は休む間もなく戦闘行為に身を投じているわけではない。彼らもまた、生きるために食べるなどという当たり前の日常生活に身を浸しているはずだ。このように考えていく中で、私は、現地の人びとの「ありきたり」の生活、連綿と続いているように思われるありふれた日常生活の重要性をきちんと評価し、その「ありきたり」の生活をきちんと考慮に入れたうえで平和について考えなければならないと思い至った。24ガダルカナル島の首都ホニアラとその近郊には、太平洋戦争の慰霊碑などが点在している。写真は、2011年に行なわれた平和慰霊公苑の再整備完成記念追悼式の様子(左、2011年11月)とガダルカナル島北岸部で玉砕した一木支隊の鎮魂碑(右、2009年11月)。ガダルカナル島北岸部の集落における現在の食事の様子(左は2018年3月、右は2019年9月)。基本的にほぼ毎食のようにコメやヌードル、缶詰などを食べている。また、インスタントヌードルに付いてくる粉末スープは、野菜類の煮炊きをするときの重要な調味料のひとつである。ガダルカナル島北岸部での「ありきたり」 「エスニック・テンション」の激戦地となったガダルカナル島北岸部の人びとは、どのような日常生活を送ってきたのか。それを人類学的なフィールドワークから明らかにすることは、紛争という事象を下支えしているのがどのような諸活動なのかを見極めることでもある。そして、その作業は、紛争と平和とを従来のように二律背反的で断絶的なものとして捉えるのではなく、両者を一連のプロセスの中に位置づけて考察するための第一歩である。 このような気付きを得てから、遅ればせながら、私はガダルカナル島北岸部におけるありふれた日常生活に対して特に注意を向けながらフィールドワークを行なった。 ソロモン諸島の人びとの約8割は、いわゆる村落部で自給自足的な生活を送っているといわれる。ガダルカナル島北岸部の人びとの多くも例に漏れず、村落でサツマイモや野菜類の栽培を行なっている。それぞれの個人は、かなり広いサツマイモ畑を複数の場所にもっているほか、さまざまな野菜類なども栽培している。ところが、彼らの日常的な食生活を見てみると、コメやインスタントヌードル、缶詰といった購入食品が大半を占めており、決して自給自足的であるとはいえない。こうした食生活は紛争以前からよく見られる光景であったとの報告もある。彼らが栽培しているサツマイモや野菜類は自給自足のための食料ではなく、首都のマーケッ
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