る。チベットでは当時から医学が伝統的学問のひとつとして確立しており、モンゴルよりも技術的に発達していた。しかしながら、中央チベット語の「医者」という単語にモンゴル語由来の「アムチ」が使われるようになった事実から、単に技術的な優位性のみにもとづいて借用が行われていたわけではないことがわかる。 東北チベットにおける文化接触 外来品や医者といった文化的語彙の借用が目立つ中央チベットに比べ、東北チベットでは、上でも述べたように牧畜文化に関するものや、銃といった実用的なものの借用が特徴的である。また、中央チベットでモンゴル語が社会的威信を持っていたのとは異なり、東北チベットにおいては、チベット語とモンゴル語どちらの威信が高いということはなく、それぞれの民族の言語として対等な関係にあった。牧畜文化語彙や銃といった単語の借用からは、高い牧畜技術を持ち、モンゴル帝国時代から銃を手にしていたモンゴルの人々と東北チベットの人々との交流の様子がうかがい知れる。 22ヤクや馬などの家畜には一年に一度、塩を舐めさせる。で呼ばれている。また、モンゴル語からの借用語としては、東北チベットでも使われている行政・交通・外交に関するものや、役職・宗教上の職名の他には、「ボタン・服の留め具 (トプチ)」、「タオル」、「靴下」といった外来品、そして「医者 (アムチ)」という単語などがみられる。チベット人とモンゴル人が生活圏を接してきた東北チベットに対し、中央チベットにおいて彼らは、「寺と施主」の関係でつきあっていた。つまり、チベット仏教を信仰し、教えと仏の加護を求めていたモンゴル人は、チベットの寺や僧侶を保護し、経済的に支え、時には軍事的なサポートも行っていたのである。そのような関係性の中で、中央チベットにおいては、モンゴル語やモンゴル風の物が社会的権威の象徴であったことが、ジグメノルブ・武内紹人による共著論文 (「チベット語におけるモンゴル語の借用語とその社会文化的含意」、1991年、原文は英語) でも指摘されている。 同論文から、中央チベットの人々とモンゴル文化との関わりがみえてくる。モンゴルの民族衣装の服の留め具である「トプチ」は、左右の前身頃を合わせて帯でしばって着るチベット服にはついていない新しいものだった。そして、留め具自体も社会的プレステージの高いものとみなされ、それを指す単語にモンゴル語が使われた。この「トプチ」のように文化的新奇性の高いものが借用されるだけでなく、「医者 (アムチ)」のような例もあツェコ県にある天然塩の採掘場。天然塩を採りにきた近所のチベット牧畜民。天然塩の結晶。河南県のレストランのホーショール(ひき肉を小麦粉生地に包んで揚げたモンゴル料理)。鞍の下に敷かれている鞍敷き「ホム」(撮影:岩田啓介)。フィールド ノート
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