フィールドプラス no.29
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家ナ紅海イル川エジプトアレクサンドリアカイロギザ地中海14けれども、家庭に深く立ち入ろうとすると、突如として一線を引かれるのだと伺った。ルームシェアをするにしても、結婚をして初めて家を出るのが一般的なエジプト社会においては、まずパートナーが見つからないだろうと。 今振り返ってもその見通しは至極正しいものと思えるが、カイロでホテルを転々としながら、会う人、会う人に「エジプト人と暮らしたい」と、ズィクル(神の名を唱えるスーフィズムの修行)のごとく唱え続けているうちに、「それならいい人がいる」と紹介されたのがヌーサだった。ドイツ系開発プロジェクトで働いていたヌーサは、地中海に面した港湾都市アレクサンドリアの出身で、当時はカイロに隣接するギザ郊外に一人で暮らしていた。第一印象は、飾り気がなく真面目で一本気。エジプト人には決して多くない、プラクティカルな思考の持ち主だった。これは神の思し召し、千載一遇のチャンスかもしれない。 だが、見ず知らずの異邦人と同居を始めることを、彼女の家族はどう思うだろう。そんな私の心配に対して彼女から出た言葉は「マフィーシュ・ムシュケラ(ノー・プロブレム)!」 エジプトでは未婚女性の一人暮らしは非常に稀である。だから実家を離れるのを機にムハッガバ、すなわち髪を隠すヒジャーブを身にまとうことを決断したという。「敬■なイスラーム教徒であることを周囲に示したいから」がその理由だ。それでも、若い女性が一人で暮らしていることを理由に、偏見や近隣からの嫌がらせを受け、相当な苦労をしていたことを後で知った。ヌーサの実家(2010年撮影)週末はアレクサンドリアでヌーサの家族と食卓を囲む。エジプト料理をほかの中東料理と比べて大味と評する人は少なくないが、エジプト料理の神髄は家庭料理にある。ヌーサの母親が手間暇を惜しまず作るマフシー(左・銀の大皿。ナスやズッキーニなどの野菜をくり抜き、米を詰めて煮込んだ伝統料理)は、留学中最高のご馳走であった。カイロ中心部のタハリール広場からシェイフ・リハーン通りを進み、アメリカン大学貴重書図書館の向かい。内務省の隣。崩れかけた階段を六階分上がったところ。そこにヌーサと暮らしたフラットがある。留学当時に暮らした家(2008年筆者撮影)中央の建物の六階部分。一階が食料品店、最上階に大家一家が住んでいた。エレベーターはなく、国際ブックフェアの日には、大量の書籍を抱えて崩れかかった階段を何往復もした。留学当時に暮らした家(2008年筆者撮影)この小さなテーブルで史料を読んでいた。タハリール広場での衝突が発生した革命初期は、アルジャジーラのニュース映像と同じ光景をバルコニーから見ていた。アッラーの思し召し 2008年、博士課程在学中にエジプトへの留学が決まった。当時の私は博士論文の構想も朧■■■■気で、前近代のアラブ都市に暮らした人間の生きざまを描くような研究がしたいと漠然と考えていた。「人」に着目した研究をするには、まずアンミーヤ(口語アラビア語)を修得し、現地に馴染むことから始めたい。その手短な方法として思いついたのがホームステイだったが、先輩方から異口同音に返ってきた答えは非常にネガティブなものだった。中世アラブ史研究の大家であった故・佐藤次高先生からは、エジプト人は非常にフレンドリーだ太田(塚田)絵里奈 おおた(つかだ)えりな / AA研特任助教ムシュケラ(問題)だらけのルームシェア それから二人の家探しが始まった。といっても、日本で貸し物件を探すプロセスとは程遠い。良さそうな建物の門番に空き部屋がないか尋ねたり、地元の情報が集まるという床屋を一軒一軒訪ねたりして、文字通り足で探さなければならない。そして何より、女性二人という「悪」条件。家賃と治安の双方を勘案して、やっと見つかったそこは、六階、エレベーターなし、風呂なし、エアコンなし、シャワー=トイレというやや過酷な2DKであった。夏の暑さは言わずもがな、冬は■間風ヌーサと暮らした家

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