年12月から1987年3月まで語学研修のためハノイに滞在した。それまで、私は文献や知人の話を通じて、ベトナムの人々は米国に敢然と立ち向かった勇敢な、愛国心の塊のような存在だと固く信じていた。ハノイ現地でも「私たちは米帝(アメリカ帝国主義)を打ち破った」という、人々の誇り高いフレーズを何度も耳にした。他方で、敵国の通貨であるはずの米ドルに対する人々の崇拝ともいえる態度には違和感を覚えた。私は西側から来た人間として、公私を問わず米ドルでの支払いを要求されるのが常だった。ここから始まって、外国人料金とベトナム人料金、公定レートと実勢(闇)レート、公定価格と自由市場価格などに象徴される二重価格体系あるいは二つの経済といったメカニズムを肌で感じることができた。現在のベトナムではもはや体験できなくなってしまったため、貴重な体験をしたと思う。なお、通貨の扱いに関しては、米ドルとベトナム・ドン、いずれも可という時代が割と長く続いた後、この7〜8年ほどはようやくドン払いが一般化してきたように感じる。 生涯を通じて在外研究と無縁であったことで知られる中国史家の上原淳道(1921−1999)は、「百聞は一見に如かずといった迷信を打破するところに自分の歴史学の意味がある」と語っている。その遺した「読書雑記」からは膨大な読書量と思索の跡、そして多岐にわたる関心がうかがえる。これこそ歴史研究者に求められる資質だということがようやくわかったのは、上原の他界後だった。しかし、それはとても私の及ぶところではなく、現地体験の助けを借りて、「百聞は一見に如かず」型の研究を続けながら今日に至ることになったと感じている。 ベトナムホーチミン市 高校3年の4月(1975年)にそれまで南北に分断されていたベトナムが一つになるという歴史的な事件があった。北緯17度線の南にあったベトナム共和国という国家が消えてしまったことに大変な衝撃を受けると同時に、新しい統一国家が社会主義の名の下でどのように形成されていくのかという点に興味を覚え、あれこれと調べ出したのがベトナム研究の道に入り込んだそもそものきっかけであった。同時に、社会主義が人類にとって未来の選択肢となりうるのかという問題にも関心があった。このような問題意識をもちながら大学に進んだわけだが、ベトナムのような社会主義国に気軽に渡航できるような時代ではなかったので、文献を手当たり次第読破して知識を吸収するしかなかった。それに加えて時折、現地の情勢に通じている人に会って情報収集をしながら渡航の機会を探るというのが、ベトナムに対する私の基本的なアプローチとなった。 今から思うと、初回と二回目のベトナム渡航では、先入観から解放されたり、誰も教えてくれなかったことを知ったり、この上なく貴重な体験をした。最初の渡航は1979年8月で、某団体の企画したツアーに参加して、ホーチミン市とその周辺に一週間ほど滞在した。中でも忘れられないのは、ホーチミン市西方近郊にあったレ・ミン・スアン新経済区を訪れた時で、大変な幻滅を覚えた。これは同市の失業者救済を目的とした入植地で、水はけの悪そうな土地一面にパイナップルが植えられていた。そこには粗末な建物がいくつかあるだけで、とても人類の未来を示唆しているようには見えず、暗澹たる気分になった。その後、この新経済区の試みは失敗に終わり、当初とはかなり趣旨の異なるレ・ミン・スアン工業区(工業団地)としてその名をとどめている。 二回目のベトナム渡航はその6年後で、1985レ・ミン・スアン工業区ハノイ*写真はすべて筆者撮影。12ハノイ駅前(1986年2月)。ホーチミン市郊外レ・ミン・スアン新経済区(1979年8月)。くりはら ひろひで / AA研ハノイ駅前(2016年12月)。レ・ミン・スアン工業区。水路は埋め立てられ,緑地帯になっている(2019年9月)。打倒米帝と米ドル文献を通じて吸収した知識や他人から得た情報、さらには自らの思い込みを基盤として成り立っていた私のベトナム像は、最初と2回目の現地体験のもとで完膚なきまでに打破されることになった。幻滅の新経済区栗原浩英ベトナムの地で味わった 幻滅と違和感と
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