んだほか、メッカへの留学の準備機関の役目も果たしている。現在もカンボジアやタイ中央部、インドネシアからも学びを求めて学生がやってきて、中東の大学へ進学している。 20世紀初頭には数十校レベルであったポンドックは印刷された教科書の普及にともない、今は深南部タイの旧パタニ王国領で500校を超える。マレーシアではイスラームが近代教育に取り入れられたため整理されてマレーシア全体で193校になっているが、それ以外にも村で子どもにアラビア語とクルアーンを個人教授する場合も見られる。 このようにしてこの地域のイスラームの実践は19世紀末から20世紀前半にかけて、急速にムスリム庶民の間に広まったのである。 マレー半島中部地域は、もともとイスラーム圏と仏教圏の境域・共生地域である。20世紀半ば以降は、タイの国民教育における仏教の重視とマレーシアのイスラームの国教化という価値観の差、さらにイスラーム革命の影響により、イスラーム実践の近年の厳格な解釈は、非イスラーム的なものを公的に許容しない傾向が強くなり、マレーシアではラテン文字化したムラユ語の教育に再びジャウィ文字表記を復活させる動きも起こっている。 7シャムの再朝貢の要求を拒否して1786年に戦って敗れ、その後の何度かのシャムとの戦いによってパタニの王家は力を失った。 この地域の交易は華人が主導権を握るようになり、華人領主を得たソンクラーが主役となっていった。19世紀後半からは汽船の運用がはじまり、汽船は深海港のみが利用可能なために、港の浅いナコンシータマラートとパタニは国際交易港としての地位を失った。その後も1902年にシャムの地方統治制度の変更によってスルタン制度が廃止され、パタニ・スルタンはクランタンに亡命した。このとき、パタニ宮廷のイスラーム・エリートたちは王宮をでて、近隣の港市、クランタンやクダーなどに避難、離散することになった。に生まれ、メッカに留学し1809年から1842年にかけて同地で暮らし、現在知られているだけで63の著作を残した。アラビア語の著作とパタニ・ムラユ語の著作があり、法学、神学、神秘主義、礼拝の他に、日常生活指標、信徒および非ムスリムに対するムスリムの義務など、イスラーム諸学のほとんどすべての分野を網羅している。シェイク・ダウドは礼拝の実践の重要性を説き、より高次段階にすすむ人のためにはスーフィズム(神秘主義)についての著作を書いた。学派としてはシャーフィイー派に属す。 彼の著作はムラユ世界の「いまだイスラーム実践が不十分な」人々のために書かれたとされる。彼自身は、メッカでは「ジャワー」と呼ばれた東南アジア出身者コミュニティで暮らしその地で生涯をおえたが、彼の弟子たちがその著作を筆写、後に印刷して東南アジアに持ち帰り、ポンドックでのイスラーム教育の教科書として用いられるようになった。マレーシアのクダー州アロースターのポンドック用キターブ・クニンの教科書販売店。現在も使用されているシェイク・ダウド・アル・ファタニの著作Bughyat al-Tullab li-Murid Maʼrifat al-Ahkam biʼl-Sawab(初版1892)。内容は「イスラム教における法律とビジネスの方法」(筆者所有)。サムロン橋のジャウィ碑文 19世紀の地域社会のありさまを示す碑文がある。マレー半島東海岸のソンクラー、パタニと西海岸のアロースターを結ぶサイブリ道路は半島横断交易路だが、ソンクラーの入口にかかるサムロン橋を1843年に地元領主、市民、商人の寄付で改修し、記念にその場所に石碑3基を建てた。タイ語、漢文、ジャウィ文字(アラビア文字)表記ムラユ語で記された碑文それぞれに特徴がある。漢文碑文では清朝の道光年間の暦、タイ語碑文には仏暦で記されているが、ムラユ語碑文にはバラモン暦が使われておりイスラーム暦は使われていない。橋の完成を祝う祭りの儀式でバラモンの儀式、仏教僧の読経とタイ人、華人、マレー人による共食が賑やかにおこなわれたことが書かれているが、イスラームを思わせるのは、ムラユ語碑文に「商人と留学生の往来が盛んになるであろう」と述べられている部分のみである。この地域の商人層や市民層からみた社会においてはイスラームの実践はまだゆるく、厳格なものではなかったとも考えられる。 メッカ留学者シェイク・ダウド・ アル・ファタニとその著作 パタニ宮廷をでたイスラーム・エリートたちは、上記のようなムスリム庶民のイスラーム実践が不十分であると思っていた。資力のある一部のエリートはメッカへ渡って最新のイスラーム知識を究めようとし、他の者はポンドック(ポノ)というイスラーム教育の私塾を開き、地域のムスリム庶民の教育を担った。 シェイク・ダウド・アル・ファタニはパタニ宮廷のウラマーの一族で、1769年ポンドックでのイスラーム教育と 庶民のイスラーム実践の拡大 ポンドックはイスラームの基礎的実践とイスラーム諸学及びアラビア語の学習を行う寄宿塾である。使用する教科書はキターブ・クニンと呼ばれ、多くはアラビア語で書かれたテキストにジャウィ文字でパタニ・ムラユ語の解釈が書き込まれたものである。手書きの教科書も現存するが、講義はパタニ・ムラユ語をつかって行われる。 ポンドックでの教育は広く庶民を受け入れ、その結果イスラームの知識と実践、特にムラユ語話者たちの識字率を向上させた。ポンドックはタイ深南部の旧パタニ王国領、現マレーシアのクランタン州、クダー州に数多く拡大し、多くの著名なウラマーを生
元のページ ../index.html#9