6シャム湾チャイヤリゴール(ナコンシータマラート)プーケットソンクラーサムロン橋サイブリ道路パタニクダー(アロースター)マレーシアペナンクランタンポンドックの分布地域マラッカ海峡タイタリク・パタニ(タイ語版)。出版地:タイ、ヤラー県。*写真はすべて筆者撮影。タリク・パタニ(タリク・ファタニ)(ムラユ語版)。出版地:マレーシア、クアラルンプール。スター教儀礼、モーセの宗教(ユダヤ教)やイスラーム商人の訪問の様子が述べられる。多様な宗教や人々が共存している港市社会のありさまを生き生きと描く。 タリク・パタニはその後、1813年にパタニ・ムラユ語に翻訳された。翻訳者は後述するパタニ出身のウラマー(イスラーム学者)でメッカに渡ったシェイク・ダウド・アル・ファタニである。その写本が彼の弟子たちによって持ち帰られた。1990年代にタイ深南部のテロの拡大でジャウィ文書が焼失することをおそれたマレーシア国立図書館がパタニに残った写本を入手し、2002年にラテン文字版として出版した。また別の写本をタイ深南部ヤラーのタイ・ムスリムが入手してタイ語に翻訳し、ジャウィ表記を添えて2012年に出版した。まだ地元に別の写本がある可能性もある。タイ、ソンクラー県のサムロン橋石碑。3つの石碑は華語、タイ語、ジャウィ表記ムラユ語で刻文されている。を名乗ってスルタンとなり、豚を食べることをやめたが、それ以外の慣習や仏教、バラモンの儀式をやめることはしなかった。医療を含むイスラームの知識とアラビア語は宮廷の独占的知識として高い地位を得たが、17世紀まで本格的なモスクが建築されることはなかった。パタニは17世紀を繁栄の頂点とし、シャムへの朝貢関係を結びつつ、マレー半島南端ジョホールの王家と婚姻関係を結び、半島の交易拠点として政治的手腕で重要な地位を維持した。黒田景子 くろだ けいこ / 鹿児島大学共通教育センター名誉教授、AA研フェロー・共同研究員パタニはマレー半島中部東岸に位置するマレー人港市で古代から東西交易の中継拠点であった。港市の支配層は最先端の知識としてのイスラームへ改宗した。交易が衰退すると学者たちは宮廷を出てイスラーム実践を説く塾を作り、民のイスラーム教育に力を注いだ。タリク・パタニ(『パタニ編年紀』) について タリク・パタニという書物がある。原本はアラビア語で16〜17世紀のパタニで成立した。著者シェイク・ファキ・アリ・ムハマッド・シャイク・サフィッディンの序文によると、同書はパタニ王国のスルタンの要請により、スルタンが保存していた史料の提供とリゴール(ナコンシータマラート)の仏教僧によるサンスクリット語碑文の読解協力を得て、さらにジャワ人や地元の古老の情報に基づいて執筆された。 内容はイスラーム化以前のパタニについての断片的な歴史伝承記録である。ランカスカ王国にはじまるパタニの起源伝承から近隣の港市群、ソンクラー、リゴール、チャイヤ、クダー、クランタンとの関係やクメールとの戦争について示している。歴史的な内容の真偽はまだ検討する余地があるが、交易港としてのパタニの描写、アラブ人、ペルシャ人、華人、ジャワ人の交易商人とその混血としてのパタニ・マレー人の誕生を記述する。さらにヒンドゥー・バラモン、仏教徒世界、ペルシャ人のゾロア宮廷知識としてのイスラーム パタニの王がイスラームに改宗したのはパサイからきたイスラームの賢者に病気治療してもらったことがきっかけで、15世紀半ばのこととされる。王はイスラーム名パタニの凋落と宮廷エリートの離散 17世紀末の交易の時代の終焉とともにパタニは衰えをみせる。さらに1768年にシャム・アユタヤ朝が崩壊した後、再興したパタニのイスラーム化宮廷の知識から民に広がるイスラーム実践教育
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