4スマトラパタニマレー半島アチェパサイマラッカパダンパレンバンジョグジャカルタカリマンタンジャワバンジャルマシンドゥマックプカロンガンクドゥスグレシックスラバヤ西スマトラ調査で見つかったムラユ語写本『ハナフィーヤ物語』(筆者撮影)。インドネシアで現在販売されているキターブ(筆者撮影)。のイスラーム学者ヌールディン・アル・ラニーリーによって彼の思想は異端扱いされ、著作は焼き捨てられた。 アル・ラニーリーはムラユ語で法学、神学、神秘主義など様々な分野のイスラーム諸学の書物を書き、これが東南アジアのイスラーム学校で広く読まれる教科書(キターブまたはキタブ・クニン)の祖となった。ラニーリーに続いて、同じく17世紀にアチェで活躍したイスラーム学者、アブドゥルラウフ・アル・シンキーリー(シャ・クアラ)も東南アジア諸語初となるタフシール(クルアーン解釈)のムラユ語版をはじめ多くのキターブを執筆した。ムラユ語のキターブはこの後、パレンバン、バンジャルマシン、パタニなど東南アジアイスラーム圏各地の著名なイスラーム学者によって執筆されるようになり、東南アジアにおいて共通のイスラームの知の世界を形成した。 キターブは当初、写本として流通したため、現在でもインドネシアやマレーシア各地のイスラーム学校(地域によって呼び名が異なる)には多くの写本が保管されているが、保存状態は悪く、整理がなされていない場合も多い。現在、各国の文献学者が、カタログ化やデジタル化を進めており、インターネット上でも資料を閲覧できるようになってきているが、写本そのものの保存状態改善にまでは至っていない。また地域によっては、宗教的理由から写本の閲覧を外部の人間に許可しておらず、アクセスすることが難しい。また、19世紀末からキターブはシンガポール、中東、インドのボンベイで出版され始め、現在でもスラバヤなどジャワ北海岸の諸都市を中心に刊行が続いているが、19〜20世紀初頭に印刷されたキターブの入手は難しい。 キターブには学校で教えるための教科書だけでなく、様々なイスラーム関連伝承や、ムジャロバットと呼ばれる占いや呪術の書も含まれており、イスラーム学校の関係者がどのような知識を伝承してきたかを知る上でも、大変興味深い。菅原由美 すがはら ゆみ / 大阪大学、AA研共同研究員スマトラでは13世紀末、ジャワでは15世紀に最初のイスラーム王国が誕生した。初めから王国がイスラームを受け入れていたスマトラと、長いヒンドゥー・仏教王国伝統をもち、徐々にイスラームを受け入れたジャワでは、イスラーム化の様態が異なる。パサイやムラカで芽生えた イスラーム伝統 東南アジアでイスラームの中心となったサムドゥラ・パサイ王国及びムラカ王国では、ペルシャ語文学に影響を受けたムラユ語文学が誕生した。ハナフィーヤ物語、アミル・ハムザ物語、ムハンマドに関わる種々の物語がムラユ語で翻案されることにより、これらの物語は東南アジア島嶼部に広まっていった。また、パサイ王国物語やムラユ王統記には初代国王がイスラームを受け入れる過程が描かれ、国の成り立ちとイスラームの関係が明示された。アチェのイスラーム化の影響力 15世紀末にスマトラ北端に誕生したアチェ王国は、パサイ王国の後継を名乗り、ムラカ王国に続いて、東南アジア島嶼部における覇権を握った。軍事力により交易・宗教の中心となり、イスラーム学者を集めた。17世紀前半アチェ王国の絶頂期のスルタン、イスカンダル・ムダの時代にイブン・アラビーの存在一性論に強く影響を受けた神秘主義詩人ハムザ・ファンスーリーの著作が人気を博し、シャイルという文学ジャンルが誕生した。しかし、その後のスルタンの時代にインドのグジャラート出身ジャワのイスラーム化 ジャワ島では8世紀からヒンドゥー・仏教諸王国の時代が長く続いていたため、イスラーム化が始まったのはスマトラやマレー半島よりもだいぶ後年である。イスラームを積極的に受け入れたのは、交易によって活性化したスラバヤやグレシックなどジャワ北海岸の諸都市で、内陸の王国がイスラーム化するのは17世紀のことである。写本から見るスマトラとジャワのイスラーム化
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