2022年5月13日、AA研コモンズカフェにて昔のアルバムをご覧に。タイ、カンチャナブリにて。カレン族の村で、蒸し上がった米を杵で撞く。1990年頃、インド東北部メガラヤ州シロンの市場にて。魚売りのカシ族。インドの市場では、物売りは男が中心である。ところがカシ族を始め、インド東北部のアッサム地方では東南アジアと同様、男女ともに市場で売り買いをしている。カシ族はまた、インドでは例外的な母系社会でもある。ン県あたりのクメール語の方言なんです。日本に帰ってからも、いわば音節表ですよね、声母と韻母の表を作って一音節の単語を辞書から全部抜き出して、調査票を作ったりしました。 それで音韻的な、内的な再建をして、今の方言分布はこういう風な形でできてきたということを研究論文としてまとめました。ですから、AA研に入るまでは私が書いてるものはカンボジア語の音韻中心です。ただ、気持ちはずっと文法にあるので、ここを潜り抜けないと文法までいけないなという気持ちがずっとありましたね。21峰岸 カンボジア語を坂本先生に習っていた当時、1977~8年、カンボジアは鎖国してたんです。先生はそれ以前に留学なさってた。で、一年間終わったところで「どうする? 続けるかい?」って言われて、せっかくやったんだから続けたいと言ったんですね。 その後、当時駒場の留学生会館にいたカンボジア人の留学生とか、その友人たちにカンボジア語を三年生の終わりぐらいから習い始めたんです。ところが、そのうち入ってくるニュースがえらいことになって。ある時留学生の一人が暗い顔をして来て、どうも親族が行方不明になっていると。大変なことになっているという話が色々入ってきて、これは留学も何もできたものではないと。そういうこともあって、大学院で修士に入った前後からタイ語の勉強を始めました。当時あちこち、例えば春休みに外語大の公開講座に行ったり、三鷹のアジア・アフリカ語学院のタイ語講座に行ったり、アジア文化会館の留学生に教えてもらうというような形で、タイ語の勉強を始めたんです。両方やることになったのは、これでは留学もできないしっていうこともありました。タイでクメール語を調べる荒川 学部・大学院時代は海外に、特に東南アジアとかに行かれたりは?峰岸 タイ政府の奨学金をもらって、博士課程一年目(1981年)でタイに一年間留学しました。それがちゃんとタイ語に触れた最初ですね。 クメール語にずっと関心を持っていて、東京で留学生と喋っているうちに、留学生それぞれ発音が違うんですよ。当時は、カンボジアってのは小さな国だしそんな大きな方言の違いは無いと習ってたんですけど……、出身を聞いてみると大分発音が違ってる。「君のところは“彼ら”って言い方と“鶏の砂嚢”っていうのは単語が一緒なんだね」って、お互いからかってた。カンボジア人同士は、自分たち地方によって発音が違うっていうのはかなり意識してるってことはわかりましたし、それは気になってたんですね。 で、実際に東北タイに行くと、少数言語としてのクメール語が残っている。標準語だと音節末音の“r”は発音しないんですけども、例えば「2」っていう単語だと、標準語だと“pii”だけですけれども、それが“piir”っていう風につづり字通り発音する人たちがいて。これはスリン・クメール、タイの東北地方のスリ『日本語・カンボジア語辞典』とカンボジアへ倉部 カンボジアに行けるようになったのはいつ頃ですか?峰岸 1990年ですかね、(カンボジア人のための)『日本語・カンボジア語辞典』。私の辞典の共著者のペン・セタリンさんっていう人が「窮乏している国のために募金して国のために役に立てたい」って言い出したんですけど、「お金は寄付してもすぐに無くなるよ。結局、国を建てるのにはやはり教育が大事だ」と。そのためには留学だと。日本に来てもらう人に勉強してもらうためには、日本語がわかるための辞書っていうものを作らなきゃいけない。そういうことがあって、一緒に『日本語・カンボジア語辞典』を作りました。 できた辞書をトヨタ財団が買ってくれて、そいつをカンボジアに配りに行きました。その時に私も、教育省やなんかに、こういう辞書ができましたと配って回りに。ちょうどUNTAC(国連カンボジア暫定行政機構)設立の後ですね。だから1992年かな。僕自身はカンボジアにはAA研に入ってから(1986年)行くようになりました。 辞書とか語彙集とか、私の業績って言ったらあれですけど、出版物の中ではサンタル語のSantali Basic Lexicon with Grammatical Notes っていうのはガネーシュ・ムルムさんとの共著だし、『日本語・カンボジア語辞典』はセタリンさんとの共著なんですね。私一人では当然できないことなので、これはもう共著にするって最初から考えていました。人から習ったんだから、タイでの留学時代の調査(後述)の時に考えたように、ことばとその話し手を自分の研究のために搾取しないっていう。両方のためになるような形にしたいなっていうのが私の希望です。カンチャナブリの奥地へ荒川 フィールドワークの思い出などは?
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