フィールドプラス no.28
22/32

*写真はクレジットのあるもの以外はすべて関係者撮影。20『日本語・カンボジア語辞典』(左が「正規版」・右が……)。ていう、論理学とか形式的な論理学にちょっと近いところがあったかもしれない。荒川 現在のご研究まで通じるところがありますね。峰岸 (東京)大学で幸いだったのは、三年生の時(1977年)に、シンタクス(syntax 統語論)の授業を言語学科の講義の中で探したんですけれども、何とAA研から非常勤で来ておられた坂本恭やすゆき章先生【カンボジア・タイ語学】がね、「クメール語(荒川注:カンボジア語とも。記事中では統一しません)のシンタクス」を開講なさっていたんですね、その年に。教室に行ってみると学生が一人いる。で、先生が入ってきて三人になった。で、先生が最初に「これはクメール語のシンタクスの授業です」って言ったら、一人が「間違えました」って出て行っちゃった。お互いに困ったなということになって(笑)。もちろん続けましたけれども。それで「音声学は履修済みでしたか?」「いや、まだやってません」となって、一種の音韻表記をしながら先生がネイティブのふりをして、こちらも表記法だけを頼りに言語調査するようなことをやり始めて。授業が一年間続きましたけれども。それが私の東南アジアの言語との出会いなんですよ。全くの偶然ですね(笑)。(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所名誉教授、AA研フェロー)(ともにAA研)「7000語の辞書の例文を全て覚える人がいるんだっていうのは、僕がこの仕事やってて一番嬉しいこと」新旧AA研の思い出。調査と研究、建物と組織……2022年3月にAA研を退職された峰岸真琴さんに、退職直前のお忙しい中、オンラインでお話を伺いました。言語学、そしてクメール語(カンボジア語)との出会い荒川 峰岸さん、まず長年にわたる研究所でのご貢献にお礼申し上げます。さて、AA研も府中キャンパスに移転してもう20年。旧西ヶ原時代のAA研を記憶している所員も少なくなっています。その辺りをご研究とか調査の思い出と一緒にお聞きできれば。まずは研究を志されたきっかけとかは?峰岸 「言語学らしきもの」を意識したのは中学生の終わりから高校生ぐらいだと思う。英語、漢文、古文とか学ぶ言語が増えていくときに、漠として、「これって一つになんないのかな」と。漠然と頭の中で考えてたのは、いわゆる一昔前の「機械翻訳」ですよね。一種の中間構造を置いて、そこから英語なり中国語、といっても漢文ですけども、それから日本語なりを今の言い方でいうと「生成する」と。発想そのものはそのころ全く知らなかったけども、チョムスキーの「標準理論」にちょっと似た形、深層構造の代わりに自分で考えた中間構造の言語を置くわけですね。中間言語から形態音韻論的な規則を立てて実際の形式を派生させるというか、うまくいくかどうかっていうのを色々暇なときに計算してみると。そういうことが私の好みだったんで、高校時代は、よくわかんないけども文法というものを研究したいと思って。それで言語学に入ったんです。ただ、どちらかというと「何とか語」っていうよりは、「何とか語を離れて文法を考える」っ特別企画タイ語との出会い倉部 タイ語とはどのように出会われたのでしょうか?フィールドに還す。 一言語研究者の回想 インタビュー 峰岸真琴 さん聞き手 荒川慎太郎・倉部慶太構成 荒川慎太郎

元のページ  ../index.html#22

このブックを見る