フィールドプラス no.28
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 12:20、カイが再び寝床から起き上がりようやく移動を開始した。カイは前日に彼の母親であるベスが採食していた果実をつけた木の方に向かった。しかし既に母親はその木にはおらず、カイはひとりで果実を採食した。一日違いで母子が同一の結実木でそれぞれ独立して採食をした。 その後もカイは17:00頃まで移動と採食を繰り返したが、カイはその日誰とも出会わず、ひとりで過ごした。これがマレー語で「森の人」と呼ばれるオランウータンのオスにとっては平均的な一日の様子である。 人類、ホモ・サピエンスと直立二足歩行したその祖先がたどった進化の道は、樹上生活から地上生活への移行の歴史である。大型の捕食者に襲われる危険が増した地上では周囲への警戒は怠ることができない。私たちの祖先は、他者といつも群れながら協力することでひとりずつが負担する労力と時間を節約し、休息にあてる時間を生むことができただろう。 肉食動物は脆弱な個体を狙うといわれる。群れから疎外され、ひとりぼっちの時間が長くなればなるほど、たいした逃げ足も持たない非力な動物が直面する死のリスクはどんどん高まっていく。私たちが感じる疎外感や孤独のさみしさは、生き残るために群れざるをえなかった、か弱き私たちの祖先が残してきた警告装置なのかもしれない。そう考えると、郷土を離れた異国の地でフィールドワークを行っている私自身にふとした時によぎる心細さ、頼りなさ、ひとりぼっちのさみしさといった一見ネガティブで、自身が押さえつけようとしてきた感情も、私たちの祖先が悠久の歴史を生き抜いた過程で手に入れた産物であり、なんとなく誇らしいものにさえ思えてきたのだった。異なる環境に飛びこみ、観察者自身の思考や感情の変容といった主観的経験も含めて観察して考えること、これもフィールドワークの醍醐味の一つであるといえるだろう。 19が立ち止まれば私も腰を下ろす。夕暮れにオランウータンが樹上で木の枝を折りたたんだ寝床に就くまでの間、毎分記録をつける。オランウータンの生活はのんびりしたもので、基本的には食事と長い休憩、移動の繰り返しからなる。オランウータンが落としたフンを探す筆者。フンから得られる遺伝子の情報はとても重要である。この間はアシスタントがオランウータンを追跡している。私たちヒトはアクシデントを回避するために森の中では必ずチームで行動する(著者は一番右)。群れないヒトのなかま 生物学的にみれば私たち人間は、ヒト(ホモ・サピエンス)と呼ばれ、霊長類の中でヒト科に分類される。ヒト科はチンパンジー、ゴリラ、オランウータン、ヒトの4グループから成り立つ。チンパンジーやゴリラはアフリカに生息する類人猿であり、オランウータンは東南アジアのスマトラ島とボルネオ島に生息する。私たちにとってのアジアの隣人でありながら、アフリカに棲むチンパンジーに比べて日本の研究者が少なく、日本人にとっては少しなじみの薄い存在であることは残念だ。 多くの霊長類は人類と同様に群れて生活を営む。しかし、霊長類の中でもオランウータンは例外であり、「孤独」なサルである。オランウータンが生息する東南アジアの熱帯林では主食となる果実が定期的に実らない。多数で群れを維持しながら暮らせるほどの食物が手に入らないことが、オランウータンが単独で暮らす理由である。 冒頭に書いたように、群れない類人猿であるオランウータンを野生下で研究するのはとても地味な作業だ。朝から森を10km以上歩き、オランウータンを発見したら、双眼鏡で彼らの暮らしぶりを見守る。オランウータンが樹上を移動すれば私も藪をかきわけながら移動し、オランウータンさみしいのはワタシ? そうした日々生じる観察の合間によく思うことは、オランウータンはさみしくないのだろうかということだ。オランウータンは私たちと同様、寿命の長い生き物である。広大な森の中で日々ひとりぼっち、母親から離れてから死ぬまでの数十年間、いっときの「友人」や「伴侶」を得たとしても、数日で別れるような関係に過ぎない(と私には感じられる)。彼らは深い森の中で、気の遠くなるような年月をくぐり抜け、孤独な日々を一日ずつ生き抜いて今日まで子孫を残してきた。私たちが観察するオランウータンの孤独に見える暮らしぶりは、数万世代にわたる祖先たちのたくましい生が導いた産物なのだろう。 そんなことを思いめぐらせていると、本当にさみしいのは「私」なのだということに思い至った。正確に言えば、「私」を含めた人類がさみしがり屋の気質を背負っている。木の上から地上を見下ろしているオランウータンの視点に立って想像してみれば、あの我々に似た見た目のヒトという生き物はなぜ常に他人と群れて、時に大勢でうろうろしているのだろう。いつも騒々しく慌ただしく歩き回り、他の誰かの後を常に追っていて、彼らは不自由に感じないのか。群れることがある日嫌にならないのかと、そう思うのではないだろうか。

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