フィールドプラス no.28
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を90度左に傾けた紙にペンを縦に動かして書写する光景が見られた(写真5)。11ハノイファンリー(ビントゥアン省)ホーチミンベトナムファンラン(ニントゥアン省)写真5 「ピニ文字」(アラビア文字)の経典の一部を90度左に傾けた紙にペンを縦に動かして書き写している。2011年8月(ラムワン)の礼拝堂における宗教職能者の学習風景。らがバニの宗教職能者アチャルに求められる専門的な知識の源泉であることは、人々のあいだで広く認知されている。 ビントゥアン省の調査では、宗教職能者たちが漠然と「クルウーン」と総称する宗教書をいくつかの種類に呼び分けていることが分かった。例えば、写真1、2は「パタル(patar)」と呼ばれる写本で、バニの教えや儀礼についての全てが書かれた最も貴重なテキストとされる。写真3の「ガル(gar)」は、金曜日の礼拝の時にイマームが読み上げる巻物である。他にも、パタルの内容の一部を書き写したり、それらに自ら解説を付けるなど個人が独自に編纂した「タプッ(tapuk)」や、ラムワンの儀礼過程の詳細が書かれた「ムラッ(mrat)」などがある。どの宗教書もいわゆる専門書のように認知されていて、普段はあまり人目につかない場所に保管されている(写真4)。一般の信者の間に流布して使用されているバニの宗教書は、この調査では確認できなかった。 バニの「クルウーン」の明確な定義はないが、宗教職能者はチャム文字とアラビア文字の両方もしくはアラビア文字だけで書かれた書物を「クルウーン」と総称しているようである。アラビア文字で書かれた文はアラビア語で、クルアーンからの引用が多く含まれる。ただし、アラビア文字と言ってもかなり独特な形に変化し、チャムの人々からは「ピニ文字」と呼ばれてそのまま手書きで継承されているので、もはやこの地域の独自文字になっていると考える方が妥当なのかもしれない。書写の仕方も独特で、2011年の調査では、若い宗教職能者たちがこの文字で書かれた経典の一部文が挿入されているといった具合である。写本を継承する意図は? これまでに考察したバニの宗教書は、死者を弔うための儀礼に関することが主な内容になっている。その中に書かれたアラビア語の祈りやクルアーンは、死者(祖先)を正しく祀るための「お経」のようなものとして存在しているのではないかと思われる。バニの場合、宗教書についての知識に長けた高齢の宗教職能者であっても、アラビア語の意味は理解しておらず、その必要性も説いていない。そして、「アッラーの外に神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である」というアラビア語を唱えていたとしても、彼らが認知している至高の神の一つは、ポー・クッと呼ばれる、アッラーや土着の神々を生み出したとされる神であったりするのである。 パタルをはじめ、現地で価値があるとされる宗教書はかなり劣化が進んでいて、その内容を説明できる宗教職能者の高齢化も進んでいる。それでも、ラテン文字転写や訳文、あるいは人々が理解できるような解説が併記された宗教書は流布しておらず、古い経典の内容を書き写して継承し、必要な時にそれを読み上げるという行為だけが宗教職能者の間で重視されている。どうやら、写本というモノそのものと、必要な場面で正しい「呪文」を読み上げることに価値が見出されているようだ。 バニの宗教書について調べる作業は大苦戦しながらもまだ継続中である。イスラームという枠組みの中では辺境の小さなグループの事例なので、埋没しないようこれからも共同研究で多くの知の集積に触れていきたい。 経典に書かれたアラビア語 バニの宗教書は、現地で知識の豊富な高齢の宗教職能者に尋ねないと分からない内容である事の方が多い。チャム語もアラビア語も読みこなせない筆者にとって、解読するのは至難の業である。これまでチャム人の協力者や日本人ムスリムの協力を得てなんとか分かったパタルの内容は次のようなものである。まず、ムスリムがアラビア語で唱える祈りの言葉(ドゥアー)やクルアーンが引用されている箇所が多数確認できること、そしてそれらは大抵、「これは祖先に香木を焚くときに(読む)」のように、具体的な儀礼の過程が記されたチャム語の文の後に挿入されていることである。 例えば写真2は、「ポー・ラトゥン・ラッ(土着の神の一つ)、ポー・クッ(後述)に代わって、イマームもしくはムティン(ムアッジンの転訛)が死者のために読む呪文」というチャム語の文の後に「アッラーよ、私たちの長ムハンマドとムハンマドの家族を祝福してください」というアラビア語が挿入され、次に、「葬儀の祈祷」というアラビア語の見出しの後に、「アッラーがあなた方に慈悲をおかけになりますように」、「アッラーの外に神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒である」というアラビア語が続く。さらに、「死者の遺体を右に倒して埋葬する前に読む呪文」というチャム語の後に、アラビア語の「アッラーのしもべたちよ、見なさい(?)アッラーがあなた方に慈悲をおかけになりますように」という

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