フィールドプラス no.28
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ベトナムの先住民チャムは、今日まで段階的にイスラームの影響を受け、その度合いによって宗教的なアイデンティティが異なるいくつかの集団を形成してきた。その内の一集団チャム・バニの人々が使用する写本には、「クルアーン」の一部が呪文のように挿入されている。*写真はすべて筆者撮影。10写真1 19世紀のものと伝えられるパタル(写本)。現在の経典として使用されている。表表紙は動物(山羊?)の皮で、裏表紙に表表紙より長い手織りの綿布が縫い付けられ、折り返して表表紙を包んでいる。27×26×8.5cm、386頁。写真2 写真1のパタル20頁の一部。伝統墨による筆写。左から右へ横書きされるチャム文字はインドのブラーフミー文字が起源。文の途中に右から左に横書きされる「ピニ文字」(アラビア文字)の文が挿入されている。た。イスラームに入信した人々は「チャム・イスラーム」や「チャム・ピヤウ(新しいチャム)」と呼ばれて区別されるようになり、チャム・バニとは別に宗教的な活動や儀礼を行うようになった。また先生は、ラムワンはラマダンの訛りであるが、バニはイスラームではないので、日中の断食をする月ではなく、祖霊を迎えて供養し、身を清めて菜食する月だと教えてくれた。村の宗教職能者アチャルは1ヶ月ものあいだ日常から離れてバニの礼拝堂(ターン・ムキ)に寝泊まりし、クルアーンの章句を読む勉強をしたり、普段よりも多くの礼拝をするという。この時の訪問を機に、筆者はチャム・バニの社会とイスラーム受容のあり方に関心を持つようになり、断続的に現地を訪れては祖霊信仰やイスラーム的な宗教実践の観察を行なっている。 写本を研究対象とするようになったのは2011年頃からである。ラムワンの期間中、礼拝堂に集って生活する宗教職能者たちがチャム文字やアラビア文字が書かれた手書きの文書を持ち寄って読んだり、書写のお手本にしたりしていること、また、祖霊を供養する時に唱えられる言葉がそれらの文書に書かれていることはそれ以前から見聞きして知っていた。しかしバニの宗教書についての研究がほとんどなく、その実態については分からないことが多かった。一般の信者は文書の内容についての知識がなく、チャム文字やアラビア文字の読み書きができる人もあまりいないので、調査中に文書が話題に上ることもほとんどない。そこで、2010年に現地の研究者と協力してバニの写本についての共同調査を企画し、翌年にニントゥアン省に隣接するビントゥアン省ファンリー周辺で現地調査を実施したのである。写真3 ガル(巻物)。幅約20cm、長さ約3m。表は150行、裏は82行にわたって文字が記されている。このガルの上部には太極図が書かれている。写真4 バニの宗教職能者が身に着ける布や衣裳は、他の家族のものとは別に収納されている。調査で多くのことを教えてくれたドーさん(故人)は、所蔵している写本を衣装棚の中に保管していた(中央の棚の一番上)。AA研共同研究員バニの村へ行く 1998年12月、留学生としてホーチミン市に住んでいた時、「ラムワン(後述)を祝いに帰省する」というチャム人の先生につれられて、中南部に位置するニントゥアン省ファンラン近郊の村を訪れたことがあった。南部の大都市ホーチミン市のサイゴン駅からハノイ方面へ向かう夜行列車に乗っておよそ7時間、チャンパ時代のヒンドゥー遺跡ポー・クロン・ガライ塔が立つ丘の麓のタップ・チャム駅につき、そこからはバイクで20分ほど走っただろうか。南部に比べると空気も土壌も乾いていて、ところどころに砂丘が見える場所に村はあった。先生によると、村の住民は皆この土地の先住民チャムで、もともとは先生と同じバニと呼ばれる宗教の信者(チャム・バニ)だけだったのが、1960年頃からイスラームに入信する人が増え、村の中にモスクまで建てられたということであっバニの「クルウーン」と アラビア文字 チャムの故地であるベトナム中南部では、マレー世界との交流が盛んであったチャンパ王国時代の17世紀にムスリムの王が誕生した。しかしその直後にチャンパがベトナムの支配下に置かれ、19世紀には徹底的な中央集権化が進められたため、末裔たるチャムの社会でイスラームが拡大することはなかったようである。こうした歴史的な背景から、中南部独自のバニという宗教が形成されたのだろう。 チャム・バニの社会では、イスラームの聖典クルアーンの刊本は流布していない。しかし「クルウーン」(クルアーンの転訛)と呼び習わされている宗教書があり、それ吉本康子 よしもと やすこ /京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科特任研究員、 チャムのイスラーム受容とはバニの写本を通して考える

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