6大阪府デヴィッド・グレーバー著、酒井隆史監訳『負債論─貨幣と暴力の5000年』(以文社、2016年)。負債という現象を、だれかがだれかになにかを「負うこと」という人間のいとなみから考察し、そこから人類史をあざやかに捉え返してみせた、人類学者デヴィッド・グレーバーの2011年公刊ながら、はやくも古典となった著書。 日頃つきあいのある、あなたの隣人の一家で病人がでて、とても困っているとしよう。子どもが、すこしばかり厄介な病気にかかってしまったらしいのである。その一家はこのところ、働き手であった父親が失業したばかりで、母親の内職によるわずかの収入ではどうにも治療費を払えそうにない。 その失業中の父親があなたの家を訪ねてきて、こうもうしでる。すこしばかりお金が必要なのだが、妻か娘を一晩、買ってくれないか、と。 仰天したあなた(ミドルクラス出身の大卒男性としておこう)は、とんでもない、いま5万円あるから、これを使いなさい、と、もともと隣家のために準備していた現金をかれの手に握らせる。 そうすると意外なことに、相手は激怒した。おまえは、おれやおれの一家を物乞いか泥棒とでもおもっているのか、見損なった、と、現金を投げ捨てて帰ってしまった。 あなたは予想外の展開に、窮してしまい、「女頭目」と呼ばれている地元の顔役のおかみさんに相談する。善意でしたことなのに、あんなに怒ることはないではないか、なにが悪かったのか、と。 おかみさんは、こう応じる。あなたはあそこで、妻か娘を「買っておく」べきであった、それが「礼儀」なのだ、と。 もちろん、あなたは目を白黒させる。そればかりか、怒りだすかもしれない。とんでもない、なんという薄情な家族であるのか、人権無視もはなはだしい、などなど。 だが、まずここでみるべきは、二つの宇宙の衝突である。二つの宇宙とは、かんたんにいうと、貸し借りでまわっている世界と現金でまわっている世界のちがいである。 ここで種明かしをすると、このお話は、戦前の大阪に実際にあったものに少し手を酒井隆史『通天閣─新・日本資本主義発達史』(青土社、2011年)。くわえただけのものである。ミドルクラス出でも大学出でもなかったが、独学で民俗学と考古学を学び、丁稚、行商人、郵便局員など無数の職を渡り歩きつつフィールドワークをおこない、また共産党員としての倫理観で下層社会をみつめ、またみずからもその社会に揉まれた人物、すなわち、民俗学者赤松啓介による、大阪の「今宮スラム」(いまの■ヶ崎)での、かれ自身の経験なのである。 そこではみんな貧しい。それにほとんどが地方からの流入者である。村落では人びとは相互にそれなりに密な関係を形成し、たがいに日頃から助け合うこと、たがいに必要なときにできるかぎり手助けをすることで生活が成り立っている。赤松自身の理論的な言葉遣いでいえば「給付」と「反対給付」のやりとりによって構成されているのである。 この世界では、現金は例外である。つまり、現金によるやりとりは、取引相手がだれか知る必要すらないし、これまでの信用の蓄積も、これからの関係の継続の見込みもない。その場かぎりの関係である。「現金なやつ」という表現があるが、基本的に、計算高くドライで人情味に乏しいといったニュアンスがそこにはある。この表現は、こうした共同体的「貸し借り」の論理が、それを破壊する異例の論理と遭遇したときの抵抗の感触をいささか残している。 もちろん、わたしたちの社会では、この酒井隆史 さかい たかし / 大阪府立大学、AA研共同研究員ここで紹介した世界は日本である。およそ100年前の日本の都市世界にはこんな世界もあった。いまの目にはいささか信じがたいものに映るかもしれない。しかし、こちらのほうが、より普遍的な世界へと拡がっているとしたらどうだろう。戦前の都市下層社会における貸し借りの論理赤松啓介「非常民の民俗学」の記録を通して
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